アジアの歴史

【明治維新の十傑】維新の立役者10人!みんな明治初期に亡くなっていた?(前編)

江戸時代から明治時代へと文明が大きく転換した幕末期。

ちょんまげが消えて断髪が流行り、着物から洋服へと、人々の暮らしは一変しました。

そんな日本の大変革の中で尽力した人物が10人います。もちろん、それ以外にも多くの人材がいましたが……。

今回は「維新十傑」と呼ばれた人々を簡単にご紹介します。

ところで、この人たちのほとんどは明治初期に亡くなっています。中には暗殺された人も……。

やはり新しいことを始めるには、誰かの反感を買うものなのでしょう。

当時、彼らは武士でした。刀を取り上げられ、藩は廃止され、日本が一つになると武士の居場所は消えてしまいました。

そして各地で反乱が起きていく……。

何かを成すためには、犠牲が必要なのでしょうか?

「維新十傑、みんな明治初期に死んでいる!?」

さっそく見ていきましょう。

上野の銅像でおなじみ!西郷隆盛

【明治維新の十傑】維新の立役者10人!みんな明治初期に亡くなっていた?(前編)

1828年、薩摩国(現在の鹿児島県)の下級藩士の家に生まれます。「維新十傑」の一人である大久保利通とは幼馴染で、子どもの頃から同じ学問を学んだ仲でした。

西郷は藩主・島津斉彬に仕えますが、老中・井伊直弼との「将軍継嗣問題」での争いに敗れ、「安政の大獄」の犠牲となってしまいます。

西郷は3度結婚し、2度島流しに遭い、さらに2度自殺を試みたという波乱万丈の人生の持ち主でした。

そして周知の通り、西郷の本格的な活躍は島流しから戻ってからのことです。

宿敵・長州藩との「薩長同盟」の締結。「大政奉還」が行われ、「王政復古」によって明治新政府が樹立されます。

旧幕府軍との「戊辰戦争」では、幕臣の勝海舟との会談を通じて、江戸城を無血開城させることにも成功しました。

明治政府では太政官制の最高機関の一つである「参議」に就任し、後に「陸軍大将」にも任じられています。

しかし、朝鮮開国をめぐる征韓論で幼馴染の大久保らと対立し、「明治六年の政変」によって政府を辞職、鹿児島へと帰ります。

鹿児島では旧武士を集める「私学校」での教育に専念していましたが、明治10年、私学校生徒の暴動がきっかけとなり「西南戦争」が勃発します。

指導者として参戦するも、最後は敗れて自刃しました。享年49歳でした。

明治政府のリーダー!大久保利通

【明治維新の十傑】維新の立役者10人!みんな明治初期に亡くなっていた?(前編)

1830年、西郷隆盛と同じ薩摩国に生まれます。西郷とは幼馴染の間柄でした。

西郷が藩主・島津斉彬に仕えていたのに対し、大久保は次期藩主の父・島津久光に接近していきます。久光は斉彬の異母弟にあたります。

久光のもとで出世を重ねた大久保は、奄美大島にいた西郷を呼び戻し、二人で薩摩藩の指導者として明治維新を成功へと導きます。

明治政府では「初代内務卿」に就任。1885年の内閣制度発足まで、実質的なリーダーとして明治政治を牽引しました。

また、岩倉使節団の副使として約2年間海外を歴訪し、帰国後は「留守政府」を取り仕切りました。

「明治六年の政変」では、西郷ら約600人の官僚が下野することになります。

「西南戦争」では京都で政府軍を指揮し、間接的に西郷と戦う形になりました。

西郷の死を知らせる手紙を受け取ったとき、大久保は柱に頭を打ち付けて泣いたと言われています。

翌明治11年、東京・紀尾井坂において、明治政府に不満を持つ元士族たちによって暗殺されます。享年47歳でした。

新選組に命を狙われながらも生き延び、明治維新で大活躍!木戸孝允

【明治維新の十傑】維新の立役者10人!みんな明治初期に亡くなっていた?(前編)

1833年、長門国(現在の山口県)の藩医の子として生まれます。当時の名前は「桂小五郎」でした。

16歳頃、「諸君!狂えよ!」の言葉で有名な吉田松陰のもとで兵学を学びます。松陰に師事した期間はわずか3年ほどでした。

幕末から明治にかけて活躍する長州藩の人材のほとんどが松陰の門下生だったというのは、驚きですね。

また、桂は江戸三大道場の一つで免許を取得し、わずか1年で塾頭にまで上り詰めた剣術の達人でもありました。

長州藩の指導者として活動を続けますが、「池田屋事件」で新選組に襲撃され、さらに「禁門の変」では朝廷・幕府・薩摩藩を敵に回してしまいます。長州藩は朝敵とみなされ、「長州征伐」で攻撃されるという危機に陥りました。

そのため、桂は幕府や新選組に命を狙われることになります。

この時代の武士にとって敵に背を向けることは恥とされていましたが、桂は「逃げの小五郎」とあだ名がつくほど、危険を察知してはその場を離れました。

「池田屋事件」でも、2階の屋根伝いに逃げ延びたという逸話が残っています。そもそも一度は池田屋へ向かったものの、新選組が踏み込む前に退いていたとも言われています。

武士の意地よりも、物事を成すためにはまず命が必要——その判断が正しかったことは、明治維新での成功を見れば明らかでしょう。

宿敵である薩摩藩との「薩長同盟」締結後、長州藩は勢いを取り戻し、明治維新へと突き進んでいきます。

「木戸孝允」と改名した後も数々の政策を打ち出し、西郷・大久保と並んで「維新三傑」と評価されています。

しかし、岩倉使節団の副使として海外視察から帰国後、持病の脳疾患が悪化し、本格的に明治政府の運営に携わることができなくなります。

この時期に起こった西郷らとの対立、すなわち「明治六年の政変」は、過労が一因だったとも言われています。

明治10年、西郷の「西南戦争」では自ら西郷軍を討伐したいと望みましたが、周囲に反対され、京都で指揮を執ることになりました。

しかし病状は悪化の一途をたどり、大久保の手を握りながら——

「西郷、不器用な奴め……」

という言葉を残してこの世を去ります。享年43歳でした。

まとめ

今回は「維新十傑」の中でも「維新三傑」と呼ばれた3人をご紹介しました。

因縁の関係にあった薩摩藩と長州藩。それぞれのリーダーとして幕末を生き抜いた彼らは、やがて二大同士が手を結ぶことで倒幕の機運を高めていきました。

この3人こそが維新の原動力だったと言えるかもしれません。

しかし明治時代に入ると、西郷と他の二人の間で意見が対立し、その末路は悲しいものでした。

新しいことを始めるのは、本当に大変なことなんですね。

この3人については、こんな評価もあります。

「西郷さんと木戸さんは明治に入っても武士のままだった。大久保さんこそ真の政治家だった」

「明治初期の数々の政策は、木戸さんがいたから実現した」

などなど……。

何が正解で何が不正解だったのかは分かりませんが、誰もがそれぞれの正義のために全力を尽くしたのだと思います。