
「平家にあらずんば人にあらず」——平氏が全盛を極めた時代が訪れていました。
これを快く思わぬ源氏たちは各地で立ち上がり、次々と挙兵していきます。
源頼朝と木曽義仲。従兄弟同士である二人は、それぞれの力で平氏討伐を目指していました。
しかし、両者の武力衝突が目前に迫ったとき、和睦が成立します。その結果、義仲の嫡男で11歳の義高が、頼朝の長女でわずか6歳の大姫の婿として鎌倉へ送られることになったのです。
今回は、源平合戦の勃発を控えた激動の時代に、悲の時代に、悲劇的な運命を辿ることとなった二人の若い恋の物語をご紹介します。
父たちは挙兵!

源頼朝の挙兵!
頼朝は、源義朝の三男として生まれ、跡取りとして大切に育てられました。
ところが13歳の頃に起こった「平治の乱」で平氏に敗北すると、源氏は衰退し、頼朝は伊豆国へ流罪となって約20年間の蟄居生活を強いられます。
そして1178年、伊豆の豪族・北条時政の長女・政子との間に、長女・大姫が誕生しました。
1180年、後白河法皇の第三皇子・以仁王が発した「平氏追討の令旨」を受け、頼朝もついに挙兵します。
木曽義仲の挙兵!
一方の義仲は、源義朝の弟・源義賢の次男として生まれました。
1155年、まだ2歳だった頃、義朝の長男・源義平(頼朝の兄)が武蔵国比企郡(現在の埼玉県)の大蔵館を攻撃。この戦いで義賢は、わずか15歳の義平に敗れて命を落とします。
その際、2歳の義仲は信濃国(現在の長野県)へ逃れ、難を免れることができました。
そして1180年、義仲もまた以仁王の令旨を受けて、信濃国で挙兵したのです。
頼朝と義仲の関係は?

源義朝の弟にあたる源義広と源行家も独自に挙兵しましたが、後に頼朝と対立して敗れ、義仲のもとへ身を寄せることになります。
これによって頼朝と義仲の間には亀裂が入り、両者は衝突寸前の状況に陥りました。
頼朝は自分の血筋こそが源氏の棟梁であると主張し続け、同じ源氏であっても決して許さなかったといわれています。後に弟の源範頼や源義経を粛清した行為にも、この思想が表れているのでしょう。
こうした両者の対立の中で、義仲の嫡男・義高が人質として鎌倉に差し出され、一時的な和平が成立することになります。
しかし、再び対立し始めた父たちの裏で、二人の若者は悲劇の運命を辿っていくのです。
11歳と6歳の結婚!

義仲と義高の死
1183年、鎌倉に送られた義高は、頼朝の長女・大姫の婿として迎え入れられます。
こうすることで、義高は人質とはいえ無碍に扱われることはなくなりました。
幼い二人がこの状況を理解できていたかは定かではありませんが、仲睦まじく穏やかに暮らしていたといいます。
ところがその頃、父・義仲は平氏軍を次々と打ち破り、ついに入京を果たします。
しかし、皇位継承問題への強引な介入や、飢饉で疲弊した京都の治安回復の遅れ、そして後白河法皇との対立により、その立場は危うくなっていきました。
そして翌1184年、頼朝の弟・義経兄弟が率いる鎌倉軍に敗れ、義仲は討ち死にしてしまいます。
父の死によって、人質としての義高の鎌倉での立場は急速に悪化していきました。
親や兄弟が幼いうちに殺されるのが当たり前だった時代です。頼朝自身も子どもの頃に父と兄を平氏に殺されており、今度は自分が仇を討とうとしていたほどですから。
義高が殺されると知った大姫は、密かに鎌倉からの脱出を試みます。
義高と同い年の側近が身代わりとなり、義高は女装して逃れようとしたのです……。
しかしこの計画は発覚。激怒した頼朝は追っ手を差し向け、義高は5日後に捕らえられて討たれてしまいました。享年12歳です。
病に臥す姫

大姫は義高の死を知ると、嘆き悲しみ、そのまま病に臥せってしまいました。
母・政子も激怒して頼朝に詰め寄ります。頼朝は義高を討った家臣を晒し首にし、罷免しました。「ただ言われた通りにしただけなのに……」
大姫の義高への想いは、10年以上経っても消えることがありませんでした。
頼朝と政子は17歳になった大姫に、京都の貴族・一条家との縁組を勧めます。しかし彼女は「そんなことをするなら、身を投げる!」と拒絶しました。
さらに頼朝は、大姫を後鳥羽天皇の妃として入内させることまで画策します。
しかし頼朝の思惑に反して、大姫の病は回復することなく、20歳の若さでこの世を去ったのです。