アジアの歴史

シカンダル・ローディー――デリーを支配したアフガン系スルタンの弾圧と破壊の記録

シカンダル・ローディー(在位1489年〜1517年)は、デリー・スルタン朝ローディー朝のスルタン、バハルール・ローディーの三男として生まれました。母はシルヒンド出身のヒンドゥー教徒金細工師の娘ジバーで、拉致されて宮廷に入った女性でした。歴史家プルショッタム・ナーゲーシュ・オークによれば、シカンダルは先代たちにも増してヒンドゥー教徒への虐殺に熱心で、その狂気じみた残虐ぶりは、同じムスリムである同時代の歴史家ニヤーマトゥッラーが著書『ターイーフ・イ・ジャハーン・ローディー』の中で「肉屋のような仕打ち」と繰り返し表現するほどだったといいます。

宗教的偏狭と寺院破壊

歴史家R.S.シャルマーは著書『Crescent in India(インドにおける三日月)』154ページで次のように記しています。
「フィールーズ・シャー・トゥグルクやアウラングゼーブと同様、宗教的偏狭こそがスルタン・シカンダル・ローディーの最大の弱点であった。ヒンドゥー寺院の破壊は、彼の統治における組織的な行為だった(マトゥラーやドールプルなどの各地がその例である)。彼の手が及んだ場所では、ヒンドゥー寺院は一つとして無事では済まなかった。彼はヒンドゥー教徒がヤムナー川の聖なるガート(沐浴場)で沐浴することを禁じ、理髪師がそこでヒンドゥー教徒の髪を剃ることさえ許さなかった。」

ベンガル出身のあるバラモンが、「イスラームもヒンドゥー教もともに真の宗教であり、両者は唯一神に至る別々の道である」と説いたことで、保守派ムスリムの憎悪を買いました。シカンダルはビハール総督に書簡を送り、この「罪人」を宮廷へ送らせました。宮廷で彼はカージー(裁判官)たちに、この種の説教が許されるのかを問います。裁定はこうでした。「このバラモンは真理を受け入れたのだから、イスラームへの改宗の機会を与えるべきである。拒むならば、もう一つの選択肢は死のみである。」バラモンは自らの信仰を捨てることを拒み、死刑に処されました。

また『History and Culture of the Indian People(インド民族の歴史と文化)』146ページには次のようにあります。
「残念ながら、イスラームの熱烈な信奉者であったシカンダルは、他の宗教を容認できなかった。ヒンドゥー教徒の母から生まれ、ヒンドゥー王女との結婚を望んだにもかかわらず、広大な領民に対する彼の振る舞いは筆舌に尽くしがたい。王子時代には、ターネーサルのヒンドゥー教徒の聖池を攻撃しようとして阻止されたこともある……マンドレル、ウットギール、ナルワールでの行動が示すように、シカンダルはしばしば寺院を破壊し、その跡地にモスクや他の建造物を建てさせた。」

マトゥラーでは、ヒンドゥー教徒が聖なるガートで沐浴したり、髪剃りの儀式(クシャウル・カルマ)を行ったりすることを禁じました。ナーガルコートから持ち帰った粉々に砕かれたヒンドゥー神像は、肉屋たちに分与され、秤の分銅に使われました。さらに、イスラームの真理を認めながら自らの信仰を守り続けたボーダンのバラモンを、ウラマー(宗教学者)たちとの協議のうえ処刑したのです。

ジャウンプールとの攻防

当時ジャウンプールはシャルキー朝ムスリムの手にありました。野蛮で狂信的なムスリム諸スルタンの無慈悲な搾取に苦しんできたジャウンプールのヒンドゥー教徒たちは、異邦の暴君を討ち倒さんと反乱を起こします。その英雄となったのが、勇猛なラージプート族長ジューガです。ジューガの有能な指揮のもと、ラージプートのバチュゴーティー一族はムスリムの一団の大部分を壊滅させました。

ヒンドゥー教徒を憎むシカンダルは、どうしてもジャウンプール城塞からジューガを追い出せませんでした。そこで彼はジャウンプールの支配者フサイン・シャルキーに伝言を送ります。「ムスリムであるお前の義務として、ヒンドゥー教徒のジューガを欺いて罠にかけることだ。そうすれば、罠にかかったヒンドゥー軍勢の血を飲んで満足し、お前をジャウンプールの独立した支配者と認めよう」。しかしフサイン・シャルキーはこの罠にはまりませんでした。その後も幾多の戦いが繰り返され、最終的にフサイン・シャルキーはベンガルへ逃亡することになります。

しかし、この二人のムスリム君主の争いで最も被害を被ったのは、クートゥンバのヒンドゥー国家でした。両軍はその領土で略奪、強盗、無差別殺戮、婦女子の誘拐を行い、寺院をモスクへと変えていきました。民と国家の惨状に怒った勇敢な王バーラーバドラは、シカンダルに対して公然と宣戦を布告します。武勇に優れたバーラーバドラと、父に劣らぬ勇者である息子ヴィール・シング・デーヴは、貪欲なムスリム軍を大いに悩ませました。シカンダルは彼らの軍勢から逃げ回り、パンナー国の国境付近で無辜の民を掠め取って回りました。老齢で衰え、愛する民がムスリムの敵に斬られ鞭打たれる姿に心を痛めたバーラーバドラ・ラーイは、スルグジャへ向かう途上で息を引き取りました。しかし、その勇者ヴィール・シング・デーヴは、自らの名に恥じぬ活躍を見せるのです。

フンフッドの戦いで、彼はシカンダル・ローディーに猛烈な攻撃を加え、ジャウンプールへ敗走させました。シカンダル軍は穀物、塩、豆類などに事欠く有様でした。さらに、フサイン・シャルキーと、ヴィール・シング・デーヴの兄弟ラクシュミー・チャンドもシカンダルに戦いを挑みます。包囲された亡きバーラーバドラ・ラーイ王の息子は、廷臣ハーン・ハーナーンを使者としてシャリーヴァーハンのもとへ遣わし、慈悲と和平を求める始末でした。

グワーリヤルとの衝突

グワーリヤルとの交渉の際、使節ヴィール・ニハル・シングは宮廷の中央で、シカンダルの臆病で陰湿かつ卑劣な振る舞いを度々面と向かって非難しました。これに激怒したシカンダルは、ヒンドゥー国家グワーリヤルを滅ぼすことを誓います。

シカンダルはまさにヒンドゥーの領土を次々と呑み込む捕食者であり、グワーリヤルには疫病のごとく襲いかかりました。グワーリヤル城塞の丘の麓には壮麗な建築群が広がり、城門の方角には数多くの宮殿が立ち並んでいます。マンシング王とその勇者ヴィクラマーディティヤはシカンダル・ローディーを撃退しました。その間に、ヴィナーヤク・デーヴ王はドールプルの支配権を取り戻しています。

シカンダル・ローディーの略奪遠征

1504年、シカンダルは飢えた狼のように、城塞周辺に暮らすヒンドゥー教徒たちを狩るために押し寄せました。城塞を掌握すると、スルタンは寺院を破壊しその跡地にモスクを建てるよう命じます。防衛をミヤーン・マーケンとムジャーヒド・ハーンに任せると、彼自身は周辺地域の略奪に乗り出しました。肉屋のごとく多くの人々を虐殺し、多数の捕虜を連れ去り、あらゆる村落と住居を根こそぎ破壊した後、己の「手腕」の披露に満足し得意げになって首都アーグラへ戻ったのです(Elliot & Dawson、Vol.5、8ページ)。

雨季が明けると、シカンダルは再びヒンドゥー領を略奪する「聖戦」の遠征に出ました。この遠征で彼はドールプルに1ヶ月半滞在した後、チャンバル地方へ向かいます。シカンダル自身がジハードを推し進め、異教徒の土地を略奪しました。森へ逃げ込んだ多くのヒンドゥー教徒を肉屋のごとく虐殺し、残りの人々は奪い尽くされたうえで鎖につながれたのです(同書100ページ)。

この破壊に激怒した勇者父子マンシングとヴィクラマーディティヤは、ムスリム一団の補給路を断ちました。シカンダルへの奇襲により、彼の軍の大部分が壊滅します。シカンダル自身も危うく死を免れ、アーグラへ逃げ帰りました。

雨季の後、シカンダルはラホールへ向かいました。1ヶ月間滞在した後、1509年にハースカンドへの道を進みます。彼はそこから「偶像崇拝者と盗賊」(すなわちヒンドゥー教徒)を一掃しました。その地の「反乱者」(すなわちヒンドゥー教徒)を殺害し、各所に小規模な駐屯所を設けると、首都へ帰還したのです。

シカンダル・ローディー――デリーを支配したアフガン系スルタンの弾圧と破壊の記録

そして1517年11月21日、ついにこの暴君は喉の癌で死亡しました。歴史家プルショッタム・ナーゲーシュ・オークは次のように総括しています。
「こうしてシカンダル・ローディーの生涯は、文字通り悪魔のごときものでした。略奪、強姦、大量虐殺、破壊、ヒンドゥー教徒の強制的なイスラーム化、そしてあらゆるヒンドゥー寺院や宮殿のモスクと廟への転用——それは悲しい長い物語です。豊かな建造物、栄える寺院、香り高い果樹園に満ちた繁栄するインド全土が、千年にわたる破壊と略奪によって、散在する廃墟、貧しい小屋、荒涼たる砂漠へと変えられていったこと。シカンダルはその好例なのです。」