アジアの歴史

サイモン委員会ボイコット運動とは?背景と経緯をわかりやすく解説

本記事では、インド独立運動史における重要な転機の一つである「サイモン委員会のボイコット(不参加運動)」について、その背景から経緯まで詳しく解説します。

関連する重要記事

  • 平方と平方根の基礎知識
  • インドの主要な湖・河川・滝・土壌に関する情報
  • インドの水運・航空・鉄道輸送に関する情報
  • 仏教と釈迦(マハートマ・ブッダ)に関する情報
  • 世界で最初の出来事に関する問題と解答
  • インドで最初の出来事に関する問題と解答
  • 試験対策に役立つ重要な問題と解答集

サイモン委員会とは

サイモン委員会は、1928年にインドへ派遣されたイギリス政府の憲法調査委員会です。ジョン・サイモン卿を委員長とし、モンタギュー・チェルムスフォード改革(1919年)の実施状況を検証するとともに、インドにおける今後の憲政のあり方を審議することを目的として組織されました。

しかしながら、委員を務めたのはすべて白人(イギリス人)であり、インド人メンバーは一人も含まれていませんでした。

ボイコットが決議された理由

「インドの将来を決める委員会に、インド人が一人も加わっていない」という事実は、民族主義者たちにとって到底受け入れられるものではありませんでした。この強い反発により、インド国民会議派をはじめとする各政党は、委員会への全面ボイコットを決定します。各地で「サイモン・ゴー・バック(帰れ)」というスローガンが叫ばれ、抗議デモや黒旗行進が展開されました。

ビハール州での抵抗運動

ビハール州では、アヌグラ・ナーラヤン・シンハの指導のもとで全政党会議が開催されました。この会議では、青年層を幅広く組織し、サイモン委員会に対するボイコット運動を積極的に展開する計画が策定されました。

そして1928年12月12日、委員会がパトナに到着した際には激しい抗議行動が起こり、さらに同12月24日のランチー到着時にも、抗議者たちが黒旗を掲げて委員会に強硬な抗議を行いました。

全国へ広がった反対運動とその影響

ボイコット運動は瞬く間に全インド規模へと拡大しました。とりわけラホールでは、ララ・ラージパト・ラーイの指揮の下で大規模な抗議行動が実施され、彼は警察の棍棒攻撃(ラティチャージ)によって重傷を負い、ほどなくしてこの世を去りました。この悲劇はインド国民に大きな衝撃を与え、独立運動を一層加速させる結果となりました。

サイモン委員会のボイコット運動は、「インドの問題をインド人抜きで決めることは許されない」という民族自決の意志を示す象徴的な出来事として、インド独立運動の歴史に深く刻まれています。