この記事では、「ヨーロッパの病人」と呼ばれたオスマン帝国が、いかにして近代的なトルコ共和国へと生まれ変わったのか、その歴史をQ&A形式でわかりやすく解説します。
トルコ共和国とは
トルコはかつて「ヨーロッパの病人」(あるいは「アジアの病人」)と呼ばれていました。これは、19世紀末から20世紀初頭にかけて、オスマン帝国が政治的・経済的に衰退し、列強諸国に領土を次々と奪われていた様子を揶揄した表現です。しかし、第一次世界大戦後、ムスタファ・ケマル・パシャ(アタテュルク)の指導のもとで帝国体制を脱し、1923年に新しい共和国が誕生しました。
基本知識:オスマン帝国とトルコ
Q. 「ヨーロッパの病人」と呼ばれた国はどこ?
A. トルコ(オスマン帝国)です。
Q. 「汎イスラム主義」のスローガンを掲げたのは誰?
A. アブデュルハミト2世です。
Q. 「統一と進歩」委員会はいつ結成された?
A. 1889年です。
Q. 青年トルコ運動は誰の治世に始まった?
A. 1908年、アブデュルハミト2世の治世に青年トルコ党(統一進歩委員会)が憲政の復活を実現しました。
ムスタファ・ケマル・パシャ(アタテュルク)の生涯
Q. 近代トルコの建設者とされるのは誰?
A. ムスタファ・ケマル・パシャです。
Q. ケマル・パシャの別名は?
A. 「アタテュルク(トルコ人の父)」と呼ばれます。
Q. ケマル・パシャはどこで生まれた?
A. 1881年、ギリシャのテッサロニキ(サロニカ)です。
Q. ケマル・パシャが将軍として大きな成功を収めた戦いは?
A. 第一次世界大戦中のガリポリの戦い(ダーダネルス戦役)です。
Q. ケマル・パシャが軍職を辞したのはいつ?
A. 1919年です。
Q. 全トルコ会議(エルズルム会議)の第一回会合を主宰したのは?
A. 1919年、ムスタファ・ケマル・パシャが議長を務めました。
条約と共和国の成立
Q. 第一次世界大戦後にトルコと結ばれた条約は?
A. 1920年8月10日のセーヴル条約です。オスマン帝国に領土分割など過酷な条件を課しました。
Q. セーヴル条約の受け入れを拒否したのは誰?
A. ムスタファ・ケマル・パシャです。
Q. ローザンヌ条約は誰との間で結ばれた?
A. 1923年、トルコとギリシャ(および連合国)の間で調印されました。
Q. トルコ共和国の成立はいつ宣言された?
A. 1923年10月29日です。
Q. 新しい共和国の初代大統領は?
A. ムスタファ・ケマル・パシャです。
Q. 共和人民党の創設者は?
A. ムスタファ・ケマル・パシャです。
改革と近代化
Q. トルコでカリフ制を廃止したのは誰?
A. 1924年3月3日、ケマル・パシャによってカリフ制は廃止されました。
Q. トルコの新憲法はいつ公布された?
A. 1924年4月20日です。
Q. トルコが世俗国家とされたのはいつ?
A. 1924年の憲法制定により国教の規定が撤廃され、1937年には憲法に世俗主義が明記されました。
Q. トルコ語協会を設立したのは?
A. 1932年、ケマル・パシャです。
Q. トルコで最初の五カ年計画が実施されたのはいつ?
A. 1933年です。
Q. イスタンブールの医科大学を設立したのは?
A. ケマル・パシャです。
Q. イスタンブールの旧称は?
A. コンスタンティノープル(クスタントゥニーエ)です。
Q. 男性の帽子(フェズ)や女性のヴェール(チャードル)が法的に禁止されたのはいつ?
A. 1925年11月25日、「帽子法」が制定されました。
Q. ケマル・パシャが亡くなったのはいつ?
A. 1938年11月10日です。
まとめ
この記事では、トルコ共和国の歴史について、「ヨーロッパの病人」「アジアの病人」と呼ばれたオスマン帝国の衰退から、アタテュルクことムスタファ・ケマル・パシャによる建国と改革までをQ&A形式でご紹介しました。セーヴル条約の拒否、ローザンヌ条約の締結、カリフ制の廃止、世俗化政策など、近代トルコの歩みを押さえておきましょう。他にも知りたい情報があれば、コメント欄からお気軽にお問い合わせください。