「ジンギスカンは一度目の日本征服に失敗したのに、なぜ二度も再挑戦したのか」という疑問を目にすることがあります。しかし、この前提自体が歴史的事実と異なります。ジンギスカン自身が日本への侵攻を試みたことを裏付ける史料は存在せず、これは広く信じられている誤解なのです。
日本を攻めたのはジンギスカンではなくフビライ・ハーン
モンゴルによる日本侵攻、いわゆる「元寇」を実行したのは、ジンギスカンの孫にあたるフビライ・ハーンです。ジンギスカンは1227年にすでに死去しており、日本遠征が行われた13世紀後半には存命していませんでした。フビライは中国に「大元ウルス」を建国し、日本に対しても服属を求めましたが、鎌倉幕府がこれを拒否したことが遠征のきっかけとなりました。
文永の役(1274年)
第一次の元寇にあたる文永の役では、元・高麗連合軍が対馬や壱岐を攻略したのち、九州北部に上陸しました。日本側の武士団は集団戦法や鉄砲のような爆音兵器「てつはう」に苦戦しましたが、元軍は損害と暴風雨の影響もあり撤退しました。
弘安の役(1281年)
第二次の弘安の役では、前回をはるかに上回る大規模な艦隊が派遣されました。しかし、激しい防衛戦と来襲した台風(後に「神風」と呼ばれる)により元軍は壊滅的な打撃を受け、再び日本征服は失敗に終わりました。
なぜ「ジンギスカン」と混同されるのか
モンゴル帝国の創設者として世界的に有名なジンギスカンの名前が、元寇の記憶と結びつけて語られるケースは少なくありません。また、日本人とジンギスカンを結びつける俗説(例えば源義経=ジンギスカン説など)がかつて流布したことも、こうした混同の一因と考えられます。
まとめ
ジンギスカン本人が日本征服を試みた史実はなく、二度にわたる日本侵攻を行ったのはその孫であるフビライ・ハーン率いるモンゴル(元)でした。文永の役と弘安の役という二度の元寇は、鎌倉時代の日本社会に大きな影響を与えた重要な歴史イベントですが、主導者を正確に理解することが歴史認識の出発点となります。