1989年の中国で何が起きたのか?
1989年は、現代中国の歴史において最も重要な転換点の一つとなった年です。北京・天安門広場を中心に起こった民主化運動と、それに対する政府の武力鎮圧(天安門事件)は、中国国内だけでなく国際社会全体に大きな衝撃を与えました。本記事では、1989年の中国で何が起きたのかを時系列に沿ってわかりやすく解説します。
民主化運動の発端――胡耀邦の死(4月)
1989年4月15日、改革開放路線を推進してきた元共産党総書記の胡耀邦が死去しました。これを受けて、北京市内の大学生たちが天安門広場に集まり、胡耀邦を追悼するとともに、政治改革・民主化・腐敗撲滅を求めるデモを行いました。
学生らの活動は急速に拡大し、4月27日には数万人規模のデモ行進が実施されました。政府は4月26日付の人民日報社説でこの運動を「動乱」であると断定して警戒を強めますが、学生や市民の支持はむしろ広がっていきました。
運動の拡大と戒厳令布告(5月)
5月4日には、五四運動70周年に合わせて大規模なデモが行われ、運動は全国の主要都市へと波及しました。5月13日には、ソ連のゴルバチョフ書記長訪中を前にした学生たちによるハンガーストライキが始まり、天安門広場には多数の市民が結集しました。
5月19日、共産党総書記の趙紫陽は自ら天安門広場の学生たちのもとを訪れ、「遅すぎた」と述べて対話を訴えました。しかし翌5月20日、政府は北京市の一部に戒厳令を布告します。人民解放軍の部隊が市内へ移動を開始しましたが、市民の抵抗によって当初は中心部への進駐を阻まれました。
6月4日――天安門事件
6月3日夜から4日未明にかけて、人民解放軍は武装した部隊を北京市中心部へ投入し、デモ参加者や一般市民に向けて発砲しました。この武力鎮圧により数百人から数千人が死亡したとされ、正確な犠牲者数は現在も明らかになっていません。
6月5日には、戦車の列の前に一人の男が立ちはだかる「タンクマン」の写真が撮影され、世界中に報道されました。この出来事は、中国政府に対する国際的な批判を決定的なものにしました。
事件後の処理と国際社会の反応
事件後、趙紫陽総書記は事態の責任を問われて失脚し、後任には江沢民が就任しました。鄧小平は最高指導者として留まり、政府は運動の関与者への摘発や裁判を進めるとともに、メディアへの統制を強化していきました。
国際社会では、アメリカ合衆国や欧州諸国が武器禁輸や経済制裁を実施し、中国の人権状況への批判が高まりました。米国議会も中国の人権問題を非難する決議を採択しています。
1989年後半の中国と世界
同年11月9日にはベルリンの壁が崩壊し、冷戦終結へと向かう大きな流れの中で、中国における民主化運動の弾圧は一層注目されました。12月10日には、チベットの精神的指導者ダライ・ラマ14世がノーベル平和賞を受賞し、その受賞演説では中国の民主化運動にも言及がなされました。
一方、中国国内では経済改革が引き続き推進され、年末には中国の人口が11億人に達したことが発表されるなど、国家としての歩みは続きました。しかし、天安門事件に関する公式な検証や謝罪が行われることはなく、この事件の記憶は今日まで中国国内で厳しく統制されています。
まとめ
1989年の中国は、民主化を求める国民の声と、それを抑え込もうとする権力が激しく衝突した歴史的な岐路でした。天安門事件は、現代中国の政治体制や言論統制のあり方を考える上で避けて通れない出来事であり、今なお世界が学び続ける歴史の一ページです。