イスラエルが1981年から1982年にかけてレバノンに侵攻した背景には、複数の要因が複雑に絡み合っていました。ここでは、その主な理由を5つの観点から詳しく解説します。
1. 中東情勢の緊迫化
1973年の第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争)以降、イスラエルとレバノン周辺の緊張は一層高まっていきました。レバノンを拠点としていたPLO(パレスチナ解放機構)は、1978年の海岸道路虐殺事件をはじめとする越境攻撃をイスラエル国内で繰り返していました。イスラエル政府は、軍事的にも政治的にも深刻な脅威となりつつあったPLOの弱体化と解体を強く求めるようになったのです。
2. 「国家の中の国家」と化したPLOの拠点
PLOは南レバノンにおいて、独自の民兵組織や政治機関、社会サービスまで備えた「国家の中の国家」を事実上築き上げていました。イスラエルはこの状況を自国の存立に関わる脅威と捉え、地域におけるPLOの勢力拡大と影響力の増大を強く警戒していました。
3. 失敗に終わった「リタニ作戦」
1978年、イスラエルは「リタニ作戦」と呼ばれる限定的な軍事侵攻を実施し、PLO戦闘員を国境線から遠ざけることを試みました。しかしこの作戦は当初の目的を十分に達成できず、PLOによる攻撃はその後も継続されました。この結果、より大規模な軍事行動の必要性がイスラエル内部で認識されることになりました。
4. 駐英イスラエル大使暗殺未遂事件
1981年6月、駐英国イスラエル大使のシュロモ・アルゴフ氏がPLO関係者による銃撃を受け、重傷を負う暗殺未遂事件が発生しました。イスラエルは、この襲撃を防げなかったレバノン側に責任があると主張し、本格的な大規模侵攻を正当化する口実としてこの事件を活用しました。
5. 長期的な戦略目標
イスラエルには、レバノンに関する長期的な戦略構想も存在していました。具体的には、北部の入植地や都市への攻撃を防ぐために南レバノンに「安全保障地帯」を設定すること、そしてレバノンにおけるシリアの影響力を削ぐことが挙げられます。これらの目標は、単なる報復ではなく、地域の軍事バランスを自国に有利に再編しようとする意図を反映したものでした。
侵攻の結果とその後の影響
このレバノン侵攻は国内外で大きな論争を引き起こし、イスラエル側とレバノン側の双方に多数の犠牲者をもたらしました。また、国際社会からの強い非難を浴びることとなり、レバノンに多国籍平和維持軍(MNF)が創設される一因ともなりました。
その後、イスラエルによる南レバノンの占領は長期にわたって続きましたが、2000年になってようやく、国連安保理決議425に基づきイスラエル軍は撤退を完了しました。この紛争は、中東和平プロセスにおける重要な転換点の一つとして、今日でも多くの歴史家や研究者によって分析されています。