アジアの歴史

飛鳥時代の豪族・蘇我氏の内紛とは?蝦夷と摩理勢の対立とその背景

飛鳥時代の朝廷を眺めてみると、宮廷内部や豪族同士の対立が頻繁に起こっていたことがわかります。なかでも日本古代史上最大の内乱とされる壬申の乱は有名ですが、この時代は皇位継承をめぐる争いや豪族間の権力闘争が絶えず、中央集権国家が形成されていく一方で、その内実は混乱に満ちていました。

では、当時の権力者の内部はどのような状況だったのでしょうか。

今回は、飛鳥時代を代表する有力豪族である蘇我氏に焦点を当てて解説します。

蘇我氏の内紛――推古天皇の後継者をめぐる対立

乙巳の変(645年)の際、中大兄皇子や中臣鎌足の側に与して蘇我本宗家を裏切った人物がいます。それが蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわのまろ)です。しかし、蘇我氏の内部に対立が生じていたのは、実はこれ以前からだったと考えられます。

それは推古天皇の後継者をめぐって、蘇我蝦夷(そがのえみし)と、父・蘇我馬子の弟にあたる境部摩理勢(さかいべのまりせ)が対立したという出来事です。

蘇我蝦夷は田村皇子(のちの舒明天皇)を、摩理勢は山背大兄王(聖徳太子の子)をそれぞれ強く推しました。摩理勢の後ろ盾となっていたのは、山背大兄王の異母兄弟にあたり、聖徳太子の血を引く上宮王家の皇族です。

蘇我蝦夷は摩理勢を説得し、何とか蘇我氏の意見をまとめようとしましたが、議論は平行線のまま決着しません。ついに蝦夷は摩理勢の墓所を破壊するという強硬策に出ます。ちょうどその頃、摩理勢の後見役であった王が亡くなったことも重なり、蝦夷は兵を挙げて摩理勢を自殺へと追い込みました。

こうして蝦夷が擁立した田村皇子は、舒明天皇として即位することになります。その結果、蘇我蝦夷の本宗家はますます権力を強めた一方で、他の皇族や豪族からの反発も一層強まっていったのです。

蘇我氏に内紛が多かった理由

では、なぜ蘇我氏は二度も兵を動かすほどの深刻な内紛を抱えてしまったのでしょうか。

(ここから先はあくまで一つの説です。信憑性については読者の方のご判断にお任せします)

その答えの一つは、蘇我氏の出自にあると言われています。

蘇我氏は実は渡来人系の氏族だったとされ、皇族や他の豪族の多くはその存在を快く思っていませんでした。そんな折、「蘇我氏の中で意見が割れている」という情報が入れば、皇室は対立する双方の後ろ盾としてそれぞれに付き、意図的に大きな混乱を引き起こした――というのがその説です。

実際、摩理勢の後ろには上宮王家が、蘇我倉山田石川麻呂の後ろには中大兄皇子が付いていました。ただし、蘇我氏の出自が正確には判明していないため、この説が正しいとは断言できません。

とはいえ、天智天皇(中大兄皇子)が石川麻呂を利用した面はあったと容易に想像できます。実際、石川麻呂はのちに讒言(ざんげん)によって中大兄皇子と中臣鎌足に自殺へと追い込まれており、彼らにとって石川麻呂が邪魔な存在であったことは疑いようがありません。さらに、中臣氏は蘇我氏と物部氏が仏教の受容をめぐって争った際、物部氏と深い関わりを持っていたことも、両氏の対立につながる要因となっています。

結局のところ、決定的な結論は出せず、ややすっきりしない終わり方になってしまいました……。いずれにしても、蘇我氏のような大豪族ともなると、同時代の他の氏族とは比べものにならないほど泥沼の状況にあり、そこに皇位継承争いが絡むことで、複雑な権力闘争が展開されていたことが見て取れます。

こうした様子を目にすると、古代であっても人間の営みは現代とさほど変わらないのだと痛感させられます。この後に勃発する壬申の乱も、女性関係が一因だとされるなど、昼のテレビドラマ顔負けのドロドロとした展開で、歴史好きにはたまらない魅力ですが、周囲の人にはなかなか理解してもらえないのが難しいところです……。