アジアの歴史

クエイド・アザムがインド国民会議に加わったのはいつ?その経歴と離脱の理由を解説

クエイド・アザム、1906年にインド国民会議へ加盟

パキスタンの建国の父として知られるクエイド・アザム(偉大なる指導者)ことムハンマド・アリー・ジンナーは、1906年にインド国民会議(Indian National Congress)に加わりました。

当時のジンナーは、ヒンドゥー教徒とムスリム(イスラム教徒)の融和を掲げる穏健派の政治家として活動しており、会議内でも急速に頭角を現していきました。

1916年には会議の議長に就任

ジンナーは優れた弁論術と交渉力によって、インド国民会議を代表する最重要指導者の一人となりました。そして1916年、ついにインド国民会議の議長(President)に選出され、その地位を確立します。

同年、彼はムスリム連盟との間で「ラクナウ協定」を成立させ、両共同体の協調による自治獲得を目指すなど、統一インドの枠組みの中での政治的権利拡大を追求していました。

1920年、ガンディーとの路線対立で離脱

しかし、その後のジンナーの足取りは大きく変わることになります。1920年、マハトマ・ガンディーが主導した「非協力運動」をめぐって両者は激しく対立しました。

ジンナーは憲法に基づく漸進的な改革を重視し、大衆的な非暴力・不服従運動には懐疑的な立場を取っていました。この根本的な路線の違いから、彼はインド国民会議からの辞任を決意します。

離脱後の歩み

会議を離れたジンナーは全インド・ムスリム連盟に活動の場を移し、後にインド亜大陸分断とパキスタン建国という歴史的な転換点を主導することになります。

このように、1906年の会議加盟から1920年の離脱までの約15年間は、ジンナーの政治思想が大きく変貌を遂げた重要な時期だったといえるでしょう。