日本では広島と長崎への原子爆弾投下で知られるトルーマンですが、その実像はそれにとどまりません。第二次世界大戦の終結から冷戦の開始まで、激動の時代を牽引した重要な指導者でした。本記事では、トルーマンの生涯、主要な政策、そして後世に残した影響について詳しく解説します。
大統領になる前のハリー・S・トルーマン
トルーマンは1884年にミズーリ州で生まれ育ちました。地元の高校を卒業した後、銀行に就職しています。大学には最後まで進学しなかったまま、後にアメリカ大統領へと上り詰めた珍しい経歴の持ち主です。
第一次世界大戦が勃発すると、トルーマンは志願兵として従軍し、最終的に大尉まで昇進しました。
帰還後、一時的に人種差別団体KKK(クー・クラックス・クラン)に入会したとされますが、ほどなくして距離を置いたといわれています。その後、郡の行政長官に当選し、政治活動を本格的にスタートさせました。
1934年には民主党からミズーリ州選出の連邦上院議員に当選。1941年には軍需における不正や浪費を追及する「トルーマン委員会」を設立し、その手腕が高く評価されました。そしてフランクリン・ルーズベルト政権のもとで副大統領に就任します。
1945年、フランクリン・ルーズベルトが死去すると、トルーマンは第33代アメリカ合衆国大統領に就任しました。
第33代アメリカ合衆国大統領として

トルーマンが副大統領として活動したのはわずか82日間で、その間にルーズベルトと直接会ったのは一度だけだったといいます。外交経験がほとんどないまま、ルーズベルトの急死によって、世界で最も緊迫した舞台に立たされることになりました。
トルーマンはポツダム会談に参加し、イギリスおよび中国とともに「ポツダム宣言」を発表して、日本に降伏を促す最後通牒を行いました。この際、ソ連のスターリンを除外する形となったことで、米ソ両国の関係は一気に悪化しました。
日本がポツダム宣言を受け入れなかったため、アメリカは新型兵器である原子爆弾を広島に、続いて長崎に投下。わずか数日の間に数十万人もの命が失われました。
原爆の使用については、マッカーサーやアイゼンハワーといった軍の幹部から強い反対意見も上がりましたが、イギリスのチャーチルらの賛同もあり、日本側への事前通告なしに実行されました。
1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏します。しかし一方で、ソ連はヤルタ秘密協定に基づいて対日参戦し、北方領土を占拠しました。
さらにスターリンは北海道への侵攻も計画していることをトルーマンに伝えますが、トルーマンはこれを拒否。この頃にはすでに米ソ間の冷戦が始まっていたと言えるでしょう。
前任者のルーズベルトがスターリンや蒋介石との関係を深めていたのに対し、トルーマンは関係を悪化させ、特に蒋介石率いる国民党を強く批判しました。国民党への支援を打ち切った結果、1949年には国民党が毛沢東率いる中国共産党に敗北し、蒋介石は台湾へと逃れます。
この件について、トルーマンは政敵である共和党から強く非難され、「トルーマンが中国に共産党政権を作った」とまで言われるほどでした。
そんな逆風の中でも、トルーマンは1948年の大統領選挙に勝利し、再選を果たします。
このとき彼は自らの政策を「フェアディール政策」と名付け、フランクリン・ルーズベルトの「ニューディール政策」の継承を掲げ、社会保障の充実や公民権法の強化を訴えました。
かつて人種差別団体KKKに所属していた時期があるトルーマンですが、大統領になった頃にはむしろ人権重視の姿勢を見せ、黒人差別に反対の声を上げた初のアメリカ大統領となりました。この流れはその後ケネディ大統領へと受け継がれ、キング牧師による公民権運動へとつながっていきます。
この時代のアメリカでは、戦後処理のためのさまざまな機関が次々と設立されました。ハリウッド映画でおなじみの中央情報局(CIA)や国防総省(ペンタゴン)が設立されたほか、ニューヨークに本部を置く国際連合(国連)も創設されています。
こうした国際協力の流れの中で、アメリカはヨーロッパ諸国との関係を改善し「西側諸国」を形成していきました。しかし中国やソ連との関係は悪化の一途をたどり、その対立は朝鮮半島に集中します。朝鮮戦争により、共産圏に支援された北朝鮮と、西側に支援された韓国との分断が確定し、2019年現在に至るまで問題の解決策は見えていません。
朝鮮戦争中、マッカーサーは中国への核攻撃を主張しましたが、トルーマンはこの発言を受けてマッカーサーを解任。これにより国内から強い批判にさらされたトルーマンは、次期大統領選挙への不出馬を決めます。引退後の1972年に死去。享年88歳でした。
ハリー・S・トルーマンの個人的評価
トルーマンは、アメリカ史上最も舵取りが難しい大統領の一人だったと言えるでしょう。第二次世界大戦と朝鮮戦争への対応、冷戦の幕開け、さらには大統領が民主党なのに議会は共和党が多数という国内のねじれ状態――そんな困難の中で、トルーマンは公約の大部分を果たし、アメリカを超大国へと押し上げました。
一方で、共産圏封じ込め政策である「トルーマンドクトリン」を発布したことでソ連や中国との関係は悪化し、冷戦と今日の国際秩序が形作られていきました。
日本には原爆を投下しながら、中国への原爆投下には反対したトルーマン。感情論を抜きに冷静に考えれば、トルーマンの判断が第三次世界大戦や米ソ間の核戦争を回避し、世界を破滅から救ったとも言えるのです。
国内政策の面でも、最低賃金の引き上げをはじめとする労働問題に力を注ぎ、富裕層寄りの共和党が多数を占める議会と対立しながらも、一定の成果を上げました。
しかし、トルーマンとルーズベルトによる労働者保護政策は、富裕層の民主党離れを招き、共和党員マッカーシーによる過激な「マッカーシズム」(共産党狩り)も引き起こされました。チャップリンをはじめ、共産党と無関係な多くの人々が国外追放されています。
トルーマンはルーズベルトのような強いカリスマ性を持った大統領ではありませんでしたが、優れた実務家であり、原爆投下の決断という点を除けば、比較的人道主義的な人物でした。
原爆投下、朝鮮戦争、冷戦の開始など、批判されるべき点も多々ありますが、総合的には、アメリカ大統領史の中でも上位にランクされる存在と言えるでしょう。