大戦争の英雄は大統領になる――アメリカの伝統
アメリカでは、大きな戦争の後に戦争の英雄が大統領になることがしばしばあります。独立戦争の後にはジョージ・ワシントン、南北戦争の後にはユリシーズ・グラント、そして第二次世界大戦の後にはドワイト・D・アイゼンハワーがその座につきました。
大統領になる前のアイゼンハワー

ドワイト・D・アイゼンハワーは1890年、テキサス州に生まれました。
彼の家系は、18世紀に宗教改革をめぐる動乱を避けてドイツからスイスへ、さらにスイスからアメリカへと移り住んだドイツ移民です。母親はエホバの証人を信仰し、父親はプロテスタントでありながらユダヤ教徒でもあったとも言われています。
アイゼンハワーの実家は決して裕福ではありませんでした。高校卒業後、進学を望みながらも経済的な事情で製糖工場に就職します。それでも進学の意志を捨てなかった彼は、士官になれば学費が免除されると知り、海軍兵学校と陸軍士官学校を受験。年齢などの事情により陸軍士官学校に入学し、以後、軍隊でのキャリアを歩むことになりました。
1936年に中佐に昇進した頃、アイゼンハワーの上官はダグラス・マッカーサー将軍でした。当時のアイゼンハワーはマッカーサーの副官を務めていましたが、一日も早くその下を離れたい一心で異動願いを提出し続けます。ところがマッカーサーはアイゼンハワーの才能を高く評価しており、そのたびに異動願いを握りつぶしたと言われています。
1940年にようやくワシントンへ戻ると、アイゼンハワーの昇進は一気に加速します。1941年3月には大佐、同年10月には准将へと昇進しました。
日本による真珠湾攻撃でアメリカが参戦すると、フィリピン勤務での功績が認められたアイゼンハワーは、参謀本部戦争計画局次長に任命されます。ここで立案した対独作戦案は、後のノルマンディー上陸作戦の基礎となりました。この作戦案をジョージ・マーシャル将軍に認められた彼は、そのまま参謀本部へ昇進し、計画に基づいてロンドンの司令部へ異動、連合国軍最高司令官に就任します。
総司令官となったアイゼンハワーは、モロッコとアルジェリアにおける「トーチ作戦」を成功させ、1944年にはついに大将へ昇進しました。長年佐官の階級にとどまっていた男が、大佐になってから大将までわずか4年。ナポレオンをも思わせる驚異的な昇進スピードです。
大将となったアイゼンハワーはパットン将軍とともにイタリア戦線へ赴き、ファシスト党率いるイタリアの降伏を実現させます。そしてフランクリン・ルーズベルト大統領により、ドイツに対する連合国遠征軍の最高司令官に任命されました。
ここから、歴史に名高いノルマンディー上陸作戦が始まります。今日「Dデー」と呼ばれるこの上陸作戦は成功を収め、1945年5月にドイツが、同年8月には大日本帝国が降伏。人類史上最悪の戦争は幕を閉じました。なお、1944年12月には軍人の最高位である元帥の地位にも就いています。
第34代アメリカ合衆国大統領
戦後、アイゼンハワーはNATO(北大西洋条約機構)の最高司令官を務めた後、1952年のアメリカ大統領選挙に出馬し、見事当選。第34代アメリカ合衆国大統領となりました。
当時、政党に所属していなかったアイゼンハワーは、共和党と民主党の双方から候補者として名前が挙がりました。しかし民主党政権が20年間続いたことから、最終的には共和党から出馬することになります。その影響か、アイゼンハワーは選挙中も対立候補を攻撃せず、清潔な選挙戦を展開して勝利を収めました。このときの副大統領候補が、後に大統領となるリチャード・ニクソンです。
朝鮮戦争の休戦とベトナムへの介入
第二次世界大戦後も、世界にただちに平和が訪れたわけではありませんでした。大統領に就任したアイゼンハワーは、朝鮮戦争の休戦実現に乗り出します。朝鮮戦争は、現在も休戦状態のまま終結していません。
その後、アジアの民族紛争への介入には慎重な姿勢を見せましたが、フランス撤退後のベトナムの共産化を防ぐためにベトナムへ介入し、正規軍の派遣こそ行わなかったものの、ベトナム戦争の発端を開くことになりました。ただし、フランスとベトナムの間のインドシナ戦争ではトルーマンがフランス軍に物資支援を行っていたため、発端自体はトルーマンの時代に開かれたとも言えるでしょう。
スエズ危機とアイゼンハワー・ドクトリン
1956年、エジプトのナセル大統領がスエズ運河の国有化を宣言。これに対してイギリスとフランスはエジプトへの軍事介入を主張しましたが、アイゼンハワーはこれに反対しました。しかし、エジプトがソ連に接近すると態度を転換し、「アイゼンハワー・ドクトリン」として中東への軍事介入を宣言。1958年にレバノンで実際に暴動が起きた際には、アメリカ軍を派遣しています。
米ソ関係の緊張と緩和
一方、スターリンの死後は後継者のフルシチョフとの妥協が成立し、1955年のジュネーブ四巨頭会談に参加。英仏ソの首脳との会談が実現しました。1959年にはフルシチョフがアメリカを訪問し、平和共存のムードが流れます。しかし、ソ連が大陸間弾道ミサイル(ICBM)の開発に成功し、U-2機撃墜事件が起こると、米ソ間の緊張は再び高まることになりました。
日米安保改定と訪日の中止
極東では、日本との同盟強化のため日米安全保障条約を改定しましたが、日本国内で大きな反発が巻き起こり、アイゼンハワーの訪日は取りやめとなりました。
軍産複合体という警告
内政面では、共和党らしく産業資本家の保護を重視する政策を採りました。特にこの時代、「軍産複合体」と呼ばれる新しい類型の産業資本家が台頭します。アイゼンハワーはこれを危険視し、抑制を訴えましたが、ソ連との果てしない軍拡競争は止められず、軍産複合体の成長を防ぐことはできませんでした。
一説によれば、次代のケネディ大統領はこの軍産複合体によって暗殺されたと言われています。かつての産業資本家のように、大統領といえどもその存在を制御できなくなったのは、アイゼンハワーの時代からだと言えるでしょう。その後、軍産複合体の経営者が大統領になることもありますが、それはまだ先の話です。
大統領任期満了後、アイゼンハワーは公の場にほとんど姿を見せることなく、1969年に78歳でこの世を去りました。
アイゼンハワーへの個人的評価
アイゼンハワーの評価が低かったのは、次世代のケネディがあまりに華々しかったため、常にケネディと比較されることを余儀なくされたからかもしれません。また、ソ連との宇宙開発競争(スペースレース)に敗れ、アメリカ国民の誇りを傷つけたことも理由として挙げられます。
さらに、インドシナ戦争やエジプト問題などへの対応で、序盤から方針を度々変えたことも、失望を招いた原因の一つだったかもしれません。
しかし、客観的に見れば、特筆すべき失政はなく、むしろ歴代大統領の中でも上位にランクされるべき存在だと考えられます。
大統領としての評価はさておき、軍人としては、第二次世界大戦の勝利を導いた世紀の作戦であるノルマンディー上陸作戦の企画と指揮を担い、世界史上でも屈指の名将の一人と言えます。同時に、トルーマンの原爆投下への強硬な反対者でもあり、戦後には「アメリカが核兵器を使わずに戦争に勝てていたなら、どれほど良かったことか」という言葉を残しています。