北米の歴史

イギリス女王は南北戦争中に南部連合を支持したのか?歴史的事実を解説

アメリカ南北戦争(1861年〜1865年)において、イギリスのヴィクトリア女王が南部連合(アメリカ連合国)を支持したという前提には、実は誤りがあります。歴史的事実としては、女王自身もイギリス政府も、南部連合を公式に支持することはありませんでした。

イギリス政府の公式立場は「中立」

南北戦争が勃発すると、イギリス政府は1861年5月に公式な中立宣言を発し、戦争期間を通じて一貫して不干渉政策を維持しました。これは、北部(アメリカ合衆国)と南部(アメリカ連合国)のどちらにも加担しないという明確な方針であり、外交上の大原則として貫かれました。

もっとも、この中立宣言には論点がありました。南部の船舶を「交戦団体」として扱ったことで、事実上南部連合を国家のような存在として部分的に認める形になったためです。しかし、それでもイギリスが南部の独立承認や軍事的支援に踏み切ることはありませんでした。

貴族層の一部に見られた南部への同情

確かに、イギリスの貴族階級や保守派の中には、南部連合に同情的な人物が一定数存在しました。彼らの中には公然と支持を表明する者もおり、南部の農園主文化との親和性や、強力な中央政府を警戒する思想などが背景にあったとされます。

しかしながら、こうした個人の感情はあくまで一部の意見にとどまり、女王本人やイギリス政府全体が南部連合の大義を支持していたと評価することはできません。むしろ労働者階級の多くは奴隷制に反対し、北部側に共感を示す傾向が強かったことが知られています。

中立政策が維持された背景

イギリスが中立を維持した背景には、いくつかの重要な要因があります。

  • 経済的な事情: 南部からの綿花輸入が途絶えたことで繊維産業の中心地ランカシャーは「綿飢饉」と呼ばれる深刻な打撃を受けましたが、一方で小麦などの食料を北部から輸入しており、北部との全面対立は回避したい事情がありました。
  • トレント号事件(1861年): 北部軍艦がイギリス郵船を臨検し、南部の外交使節を逮捕した事件で、一時的に英米関係は緊張しましたが、最終的には外交交渉によって解決されました。
  • 装甲艦の差し押さえ(1863年): イギリス国内で南部向けに建造されていた装甲艦(いわゆるレアード・ラム)を政府が差し押さえたことは、中立政策を遵守する姿勢を内外に示す決定的な出来事となりました。

さらに、1863年の奴隷解放宣言以降、奴隷制廃止を長年推進してきたイギリス世論が北部支持へと大きく傾き、南部承認の可能性はほぼ消滅しました。

まとめ

つまり、「イギリス女王が内戦中に南部連合を支持した」というのは史実ではありません。正しくは、ヴィクトリア女王とイギリス政府は中立を維持し、南部連合を公式には支持しなかったということになります。一部の貴族個人の同情は存在したものの、それはあくまで個人的な意見であり、国家の公式方針とは別のものでした。