北米の歴史

なぜアメリカはイギリス式の「補償金つき段階的奴隷解放」を採用しなかったのか?

はじめに

1833年、イギリスは「奴隷制度廃止法」を成立させ、カリブ海植民地の奴隷所有者に総額約2000万ポンドもの補償金を支払うとともに、解放された元奴隷には一定期間の労働を義務づける「見習い制度(Apprenticeship)」を導入し、段階的な自由への移行を実現しました。
一方、アメリカは同じ方法を採用せず、最終的には南北戦争という内戦によってしか奴隷制を終わらせることができませんでした。なぜ両国はこれほど異なる道を歩んだのでしょうか。主な理由を3つの観点から解説します。

1. 歴史的背景の違い

カリブ海地域では、奴隷人口の大多数が大西洋奴隷貿易によってアフリカから連れてこられた人々であり、プランテーション経済を支える労働力として管理されていました。奴隷制は宗主国であるイギリスの議会が統括する仕組みだったため、本国の立法ひとつで制度全体を変更できる構造でした。
これに対してアメリカでは、植民地時代の初期に先住民やヨーロッパ出身の年季契約労働者が存在したものの、次第に奴隷制はアフリカ系の人々を対象とする世襲的で人種に基づく身分制度として固定化していきました。建国以来、南部社会の根幹に深く組み込まれた制度だったため、簡単に手術メスを入れられる状態にはなかったのです。

2. 経済構造の違い

カリブ海諸島の経済は、砂糖などを中心とするプランテーション農業に強く依存した単一栽培型の経済でした。奴隷労働への依存度は非常に高いものの、宗主国からの補償金という「代替案」を伴えば、経済全体への衝撃をある程度管理できる側面がありました。
一方のアメリカ経済は、北部の工業・商業と南部の農業という二重構造を持っていました。特に1793年の綿繰り機(コットン・ジン)の発明以降、南部の綿花生産は爆発的に拡大し、奴隷制はむしろ拡大・強化の一途をたどります。奴隷そのものが高額な「資産」とみなされていたため、全奴隷所有者への補償には天文学的な費用がかかり、政治的にも財政的にも現実的な選択肢とはなり得なかったのです。

3. 政治体制の違い

カリブ海の植民地はイギリスやフランスなどの宗主国による直接統治下にあり、自治権は大きく制限されていました。そのため、ロンドンの議会が法律を可決すれば、植民地全体に対して奴隷廃止を一方的に押し進めることが可能でした。
ところがアメリカは連邦制国家であり、奴隷制を含む多くの政策は各州の判断に委ねられていました。南部諸州は「州権」を盾に連邦政府の介入に強硬に反発し、議会では奴隷州と自由州の勢力均衡をめぐる綱引きが続きました。ミズーリ協定(1820年)や1850年協定などの妥協案も次々と破綻し、連邦レベルでの一括レベルでの一括廃止は憲政上も政治上も極めて困難な状況にあったのです。

おわりに:アメリカが選んだもう一つの道

こうした歴史的・経済的・政治的な背景から、アメリカはイギリス式の「補償金+見習い制度」による平和的な段階的廃止を採用することができませんでした。
代わりに、北部を中心とする廃止運動(アボリショニスト運動)が力を増し、逃亡奴隷法をめぐる対立などを経て南北の亀裂は修復不能なまでに深まり、1861年に南北戦争が勃発します。そして1863年の「奴隷解放宣言」、1865年の憲法修正第13条の批准により、アメリカは奴隷所有者に一切の補償を支払わないまま、武力によって奴隷制を廃止するという、イギリスとはまったく異なる結末を迎えたのです。