1920年代のアメリカにおいて、先住民(ネイティブ・アメリカン)は深刻な不寛容と差別に直面していました。強制的な同化政策やインディアン寄宿学校制度の影響が色濃く残る時代でしたが、彼らの対応は個人や状況によって大きく異なり、決して一枚岩ではありませんでした。ここでは、当時の先住民が示した代表的な反応を7つに分けて紹介します。
1. 同化と文化の保存
多くの先住民は、生き抜くための戦略としてアメリカ主流社会の側面を取り入れました。英語名の採用、キリスト教信仰の受容、いわゆる「白人風」の服装を身につけることなどがその例です。しかし、こうした表面的な同化は、言語、儀式、世代から世代へと受け継がれてきた物語といった文化的遺産を守る努力と並行して行われることが多くありました。
2. 活動家による抵抗
この時期には、公民権、土地の権利、生活環境の改善を求める先住民の活動家たちが台頭しました。彼らは「アメリカインディアン協会(Society of American Indians)」などの団体を組織し、差別と闘いながら先住民の自己決定権を推進しました。ジトカラ・サ(Zitkala-Sa)やチャールズ・カーティス(Charles Curtis)のような人物は、自らの社会的立場を活かして不正義に声を上げ、変革を求めました。
3. 精神的・宗教的な運動
多くの先住民は、差別に直面する中で、力と回復力の源として精神的な実践に頼りました。伝統的な儀式や祭祀は、文化的アイデンティティを維持し、祖先の知恵とつながる手段として再び重視されるようになりました。ゴースト・ダンス(Ghost Dance)やネイティブ・アメリカン教会(Native American Church)といった宗教運動は、困難な時代における希望と精神的な支えとなりました。
4. 連携と同盟の構築
一部の先住民の指導者たちは、自らの苦難への理解を広めるため、進歩的な団体や共感を持つ個人との同盟を模索しました。後にニューディール政策期にインディアン事務局長を務めるジョン・コリアー(John Collier)のような協力者と手を組み、部族の主権を尊重し、経済格差に対処する政策を提唱していきました。
5. 法的な闘争
先住民の部族や個人は、差別と闘い自らの権利を守るために法的手段も活用しました。不当な条約や土地の権利侵害に異議を唱える訴訟を起こし、サラ・ウィヌマッカ(Sarah Winnemucca)やカルロス・モンテズーマ(Carlos Montezuma)のような活動家は、より良い待遇と機会の拡大を求めて議会やインディアン事務局へ請願を行いました。
6. 経済的な戦略
経済的苦境への対応として、一部の先住民コミュニティは経済開発の取り組みに注力しました。協同組合や小規模事業、農業企業を設立することで収入を生み出し、政府支援への依存を減らす道を探りました。
7. 都市への移住
より良い機会を求め、差別から逃れるため、一部の先住民は主に西部諸州の都市部へ移住しました。この都市移住は、過密な居住環境、失業、文化的な断絶といった新たな課題を生み出す一方で、各種サービスへのアクセスや、他の疎外されたコミュニティとの連携の可能性ももたらしました。
時代の転換点となった出来事
1920年代は、先住民の地位に関わる重要な変化が起きた時期でもあります。1924年には「インディアン市民権法」が成立し、アメリカ合衆国で生まれたすべての先住民に市民権が付与されました。ただし、実際には州ごとに投票権が制限されるなど、真の平等までには長い道のりが残されていました。また、1928年の「メリアム報告」は、先住民の貧困と教育状況の劣悪さを明らかにし、その後の政策転換の契機となりました。
まとめ
重要なのは、これらの対応が互いに排他的なものではなく、個人、部族、地域によって多様であったという点です。同化を選びながらも文化を守った人々、声を上げて闘った活動家、信仰に力を見出した人々――そうした先住民たちの集団的な努力と回復力は、その後数十年にわたる権利運動と社会進歩の確かな基盤となりました。