北米の歴史

南北戦争におけるイギリスの立場は?中立政策の裏にあった複雑な事情

南北戦争におけるイギリスの「中立」とは

アメリカ南北戦争(1861年〜1865年)の間、イギリスは公式には中立政策を堅持し、北軍(アメリカ合衆国)と南軍(アメリカ連合国)の双方を「交戦団体」として承認しました。しかし、この中立は決して単純なものではなく、経済的利益と社会的同情が絡み合い、きわめて複雑な状況を生み出していました。

経済的利益:綿花と貿易の綱引き

イギリスは南北双方と深い経済的な結びつきを持っていました。

  • 北部との関係: 北部諸州はイギリス製工業製品の重要な市場であると同時に、原料の供給源でもありました。
  • 南部との関係: 一方、南部諸州はイギリスの繊維産業を支える綿花の最重要供給地でした。当時のイギリス経済において、「キング・コットン」の存在は絶大な影響力を持っていたのです。

社会の分裂:階級ごとに異なる支持

イギリス国内の世論も一枚岩ではありませんでした。

  • 上流階級・貴族層: 多くは南軍に同情的でした。彼らは南部の独立闘争を、自国がかつて絶対王政と戦った歴史と重ねて捉えていました。
  • 労働者階級: 一方で労働者たちは、奴隷制と抑圧の上に成り立つ社会だとみなした南軍を退け、北軍(合衆国)を支持する傾向が強くありました。

外交を揺るがした重大な出来事

トレント号事件(1861年)

アメリカ海軍がイギリス船「トレント号」を拿捕し、南軍の外交官メイソンとスリデルを強制的に連れ去ったことで、英米間に深刻な外交危機が発生しました。イギリス国内は激怒し、開戦寸前まで追い込まれますが、アメリカ側が謝罪して外交官を釈放したことにより、緊張は回避されました。

南軍の通商破壊艦問題

イギリスの造船所で建造された「CSSアラバマ」などの南軍艦艇が、公海上で北軍の商船を次々と襲撃しました。これにより北軍側の経済は大きな打撃を受け、英米関係にも深い亀裂が入ることとなりました。

奴隷解放宣言(1863年)

エイブラハム・リンカーン大統領が発した奴隷解放宣言は、イギリス国内で広範な支持を獲得しました。この道義的な訴えは世論を北軍支持へと大きく動かし、戦争の性格を変える転換点となりました。

表向きは中立、裏では支援——南軍への援助

公式には中立を維持しながらも、イギリスから南軍への支援は実際に存在していました。

  • 一部のイギリス人商人や銀行家が、南軍政府に資金や物資を提供しました。
  • イギリスの造船所が、南軍海軍向けの軍艦を建造・供給しました。
  • 多くのイギリス人が志願兵として南軍に加わり、「ブリティッシュ・レジオン(イギリス軍団)」などの部隊を編成しました。

まとめ:綱の上を歩くようなイギリスの外交

南北戦争期のイギリスの立場は、公式な中立を保ちながら、経済的利益・国内世論・対米関係という複数の要因の間で綱渡りを続ける、きわめて複雑なものでした。こうした要因が相互に影響し合いながら、戦争を通じてイギリスの政策と行動を形作っていったのです。