1850年の妥協とは何か
1850年の妥協(Compromise of 1850)は、米墨戦争で獲得した広大な新領土における奴隷制の存廃をめぐり、北部と南部の対立が激化する中で、ヘンリー・クレイらの尽力によって成立した一連の法案です。この妥協では、南北双方が互いに譲歩を迫られる形となりました。
南部が北部に行った譲歩
南部諸州は、以下の点で北部側の要求を受け入れました。
- カリフォルニアの自由州としての加盟:ゴールドラッシュによる人口急増を背景に自由州としての連邦加入を求めていたカリフォルニアの承認に同意しました。
- ワシントンD.C.での奴隷貿易の廃止:首都における奴隷の売買は禁止されました。ただし、奴隷制そのものは維持されることになりました。
- テキサスの領土主張の放棄:テキサスはニューメキシコ東部への領有権主張を撤回し、その見返りとして連邦政府がテキサスの負債を引き受けました。
北部が南部に行った譲歩
一方、北部も南部に対して重要な譲歩を行いました。
- 逃亡奴隷法(1850年)の制定:逃亡奴隷の捕獲と返還を連邦政府が強力に支援する法律が成立し、南部の強い要求が受け入れられました。
- ニューメキシコ準州・ユタ準州の設置:両準州では奴隷制の可否を住民自身が決定する「人民主権(住民自決)」の原則が採用され、将来の奴隷州化の可能性が残されました。
- ウィルモット条項の事実上の放棄:メキシコ割譲地での奴隷制を全面的に禁止しようとしたウィルモット条項の方針は採用されず、人民主権による解決が優先されました。
妥協の限界と南北戦争への道
1850年の妥協は一時的に南北間の緊張を和らげ、連邦の分裂を数年先送りすることに成功しました。しかし、奴隷制という根本的な問題を解決したわけではなく、むしろ厳格な逃亡奴隷法は北部世論の強い反発を招き、対立をさらに深める結果となりました。この不安定な均衡はやがて崩れ、1861年の南北戦争勃発へとつながっていったのです。