1850年に成立した逃亡奴隷法(Fugitive Slave Act)は、北部で広範な反対と抵抗に直面しました。廃止論者、自由黒人、さらには一部の穏健派の白人を含む多くの北部住民が、この法律の執行を妨害し、骨抜きにするために積極的に活動したのです。
ここでは、北部が逃亡奴隷法にどのように反応したのか、その主な形態を5つに分けて解説します。
1. 個人の自由法(Personal Liberty Laws)
北部の複数の州は「個人の自由法」を可決しました。これは、逃亡奴隷が捕らえられて南部に送還されることを防ぐことを目的とした法律です。多くの場合、州職員が連邦当局と協力して逃亡奴隷法の執行に関わることを禁じる条項が含まれており、州レベルからの抵抗の核となりました。
2. 抵抗運動と地下鉄道(Underground Railroad)
秘密のルートと安全な隠れ家からなるネットワーク「地下鉄道」は、逃亡奴隷が自由州やカナダにたどり着くための支援活動をますます活発化させました。ハリエット・タブマンに代表されるように、白人廃止論者や黒人活動家を含む多くの人々が、逮捕や投獄の危険を冒しながらも逃亡者を助け続けました。
3. 法的な挑戦
北部の弁護士や活動家の中には、裁判所で逃亡奴隷法の合憲性に異議を唱える者も現れました。彼らは「この法律は逃亡奴隷だけでなく、自由黒人の権利までも侵害しており、違憲である」と主張し、司法の場での抵抗を展開しました。
4. 抗議活動と暴動
逃亡奴隷法への反発は、街頭でも顕著でした。連邦当局が逃亡奴隷の捕縛と送還を試みるたびに、大規模な抗議デモや暴動が発生することが少なくありませんでした。有名な例としては、1851年のクリスチャナの戦いや、ボストンでのアンソニー・バーンズ事件(1854年)が挙げられます。
5. 政治的な反対
奴隷制拡大に反対する自由土地党、そして後に結成される共和党の政治家たちは、逃亡奴隷法に断固として反対しました。彼らは議会内でこの法律を批判し、廃止を求めるキャンペーンを展開するとともに、地下鉄道の活動を公然と支持しました。
まとめ:南北戦争への道
北部によるこうした抵抗は、単なる地域的な反対運動にとどまらず、南北間の緊張を決定的に高める要因となりました。逃亡奴隷法をめぐる対立は、奴隷制をめぐる国家の亀裂を深め、最終的に1861年の南北戦争勃発へとつながっていったのです。