1862年は、アメリカ南北戦争における転換点となった激動の一年でした。東部では南軍の首都リッチモンドをめぐる攻防が繰り広げられ、西部ではミシシッピ川の支配権を巡って熾烈な戦いが展開されました。さらに、リンカーン大統領による奴隷解放予備宣言が発表され、戦争の性格そのものが変わり始めた年でもあります。ここでは、1862年に起こった主要な出来事を時系列でご紹介します。
春:シャイローの戦いとニューオーリンズ陥落
4月6日〜7日:シャイローの戦い
テネシー州南西部で行われたシャイローの戦い(ピッツバーグ・ランディングの戦いとも呼ばれます)は、それまでの北米大陸で最も多くの犠牲者を出した戦闘となりました。グラント将軍率いる北軍は南軍の奇襲を受けながらも反撃に成功し、重要な勝利を収めます。この勝利を足がかりに、北軍は5月末にミシシッピ州コリンスを占領し、ミシシッピ渓谷制圧への一歩を踏み出しました。
4月25日:ニューオーリンズの陥落
北軍はルイジアナ州ニューオーリンズを占領しました。南軍最大の貿易港であった同市の陥落により、北軍はミシシッピ川の河口を掌握し、戦略的に大きな優位を得ることになりました。
夏:半島方面作戦と七日間の戦い
5月〜7月:半島方面作戦
マクレラン将軍率いる北軍ポトマック軍は、バージニア州リッチモンド攻略を目指す大規模な「半島方面作戦」を展開しました。しかし、この作戦は思うように進展しませんでした。
5月31日〜6月1日:セブンパインズの戦い
フェアオークスの戦いとしても知られるこの戦闘で、南軍は北軍によるリッチモンドへの進撃を食い止めることに成功しました。
6月1日:リー将軍の指揮官就任
セブンパインズの戦いで南軍司令官ジョセフ・ジョンストン将軍が負傷したことを受け、ロバート・E・リー将軍が北バージニア軍の指揮官に就任しました。リーの登場は、その後の東部戦線の流れを大きく変えることになります。
6月25日〜7月1日:七日間の戦い
リー将軍率いる南軍は、リッチモンド周辺で連続的な攻勢をかけました。この一連の戦闘で北軍は大きな損害を被り、マクレランはリッチモンド近郊からの撤退を余儀なくされました。
秋:アンティータムの戦いと奴隷解放予備宣言
8月29日〜30日:第二次ブルランの戦い
第二次マナサスの戦いとしても知られるこの戦闘で、南軍は決定的な勝利を収めました。この勝利は南軍の士気を大きく高め、「戦争に勝てる」という希望をもたらしました。
9月17日:アンティータムの戦い
シャープスバーグの戦いとしても知られるこの戦闘は、わずか一日で両軍合わせて約23,000人の死傷者を出すという、アメリカ史上最も血なまぐさい単日の戦いとなりました。北軍は戦術的には勝利し、リー軍によるメリーランド侵攻を阻止しましたが、リー軍を壊滅させるという目標までは達成できませんでした。
9月22日:奴隷解放予備宣言の発布
アンティータムでの勝利を受けて、リンカーン大統領は奴隷解放予備宣言を発布しました。その内容は、1863年1月1日までに反乱諸州が連邦への復帰を拒んだ場合、南軍支配下にある地域のすべての奴隷を自由とするというものでした。この宣言により、戦争の目的は国家の統一にとどまらず、奴隷制の廃止へと拡大していきました。
10月3日〜4日:コリンスの戦い
ミシシッピ州コリンスで行われたこの戦闘で北軍が勝利し、ミシシッピ中央鉄道の支配権を確保しました。これにより、西部戦線における南軍の防衛体制はさらに弱体化することになりました。
冬:フレデリックスバーグの惨敗
12月11日〜15日:フレデリックスバーグの戦い
バーンサイド将軍率いる北軍は、高地に防御陣地を築いたリー将軍の南軍に対して正面攻撃を仕掛けましたが、圧倒的な敗北を喫しました。北軍の死傷者は12,000人を超え、この年の主要な軍事作戦は幕を閉じることとなりました。
まとめ
1862年は、南北両軍が互いに勝利を重ねた激動の一年でした。西部戦線では北軍が優勢に立ち、東部戦線ではリー将軍率いる南軍が健闘を見せました。そして何よりも重要なのは、9月の奴隷解放予備宣言によって、戦争の目的が国家統一から奴隷制廃止へと拡大したことです。この歴史的な転換は、その後の戦争の帰趨のみならず、アメリカ合衆国の未来にも深い影響を与えることになりました。