北米の歴史

カンザス・ネブラスカ法は奴隷制の拡大にどのように対処したのか?

カンザス・ネブラスカ法(1854年)とは

1854年に成立したカンザス・ネブラスカ法(Kansas-Nebraska Act)は、それまで未組織だったグレートプレーンズ東部に「カンザス準州」と「ネブラスカ準州」という二つの自治領を新設する法律でした。法案の中心的な推進者はイリノイ州選出の上院議員スティーブン・A・ダグラスで、大陸横断鉄道の建設と西部開拓の促進を目的としていました。

「人民主権」という賭け

この法律の最大の特徴は、各準州で奴隷制度を認めるか否かを、連邦議会ではなくその土地の住民の投票によって決定させた点です。この方式は「人民主権(popular sovereignty)」と呼ばれました。

しかし、この仕組みは1820年のミズーリ妥協を事実上破棄するものでした。ミズーリ妥協は、北緯36度30分より北では奴隷制度を永久に禁止すると定めた歴史的合意であり、南北の均衡を保つ重要な枠組みでした。カンザス・ネブラスカ法はこの禁止条項を撤廃し、それまで奴隷制が禁じられていた地域にも奴隷制が拡大する可能性を開いてしまったのです。

「血を流すカンザス」——暴力へのエスカレーション

その結果、奴隷制支持派(南部勢力)と反対派(北部勢力)の双方が、自陣営に有利な投票結果を得るため、カンザスへ大量の入植者や武装集団を送り込みました。両派の衝突は激化し、1850年代後半のカンザス準州は「血を流すカンザス(Bleeding Kansas)」と呼ばれる小規模な内戦状態に陥ります。1856年のローレンス略奪事件や、急進的廃奴主義者ジョン・ブラウンらによるポタワトミーの虐殺などが象徴的な出来事です。

国家分裂への道

カンザス・ネブラスカ法は、ホイッグ党の崩壊を招き、奴隷制拡大に反対する諸勢力が結集して共和党を結成する直接の契機となりました。さらに1857年のドレッド・スコット判決と相まって、南北の対立はもはや妥協では解決できない段階へと進み、最終的に1861年の南北戦争勃発へとつながっていったのです。