第一次世界大戦の開戦責任について、当時の連合国、とりわけフランスとイギリスが最も強く責任を問うた国はドイツでした。しかし、その経緯にはいくつかの重要なポイントがあります。
開戦の直接のきっかけとなった暗殺事件
1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公が、セルビア人民族主義者のガヴリロ・プリンツィプによってサライェヴォで暗殺されました。この「サライェヴォ事件」こそが、戦争勃発の直接的な引き金となったのです。
なぜドイツが責任を問われたのか
暗殺の直後、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は同盟国であるオーストリア=ハンガリーに対し、セルビアへの強硬措置を事実上無条件で支持する「白紙委任状」と呼ばれる外交的後押しを行いました。この決断が、局地的な紛争をヨーロッパ全土へと拡大させた一因とみなされました。
さらに、戦前の数十年間にわたり強まり続けていたドイツの軍国主義と膨張主義も、非難の大きな根拠となりました。急速な海軍力の増強や植民地政策への野心は、周辺諸国に深刻な警戒感を与えていたのです。
ヴェルサイユ条約と「戦争責任条項」
1919年に調印されたヴェルサイユ条約では、第231条(いわゆる戦争責任条項)において、ドイツおよびその同盟国に戦争の責任があることが明記されました。この規定は、ドイツに莫大な賠償金と領土削減などの厳しい処分を課す法的根拠として用いられました。
現代の歴史学から見た開戦責任
現代の歴史研究では、開戦の責任はドイツ一国だけでなく、オーストリア=ハンガリー、ロシア、フランスなど複数の大国に分散していたとする見方が主流になっています。それでも当時の連合国がドイツに責任を集中させたのは、戦争によって生じた甚大な破壊と犠牲の償いを求め、賠償請求の正当性を確保するためでした。
このように、第一次世界大戦の開戦責任をめぐる問題は、単なる歴史の問いにとどまらず、戦後の国際秩序や第二次世界大戦への流れにも深く影響を与えた重要なテーマといえます。