第一次世界大戦は、1914年から1918年にかけて続いた世界的規模の紛争です。ロシア、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー、フランス、イギリス、イタリア、日本、アメリカなど、当時の列強諸国がほぼすべて参戦し、数百万人が命を落としました。この戦争によって、ヨーロッパの政治・社会のあり方は劇的に変化することになりました。
「誰の責任か」に単一の答えはない
第一次世界大戦の責任が誰にあるのかという問いには、単一の正解は存在しません。歴史家たちは数十年にわたりこの問題を議論してきましたが、いまだに合意には至っていません。ナショナリズム、帝国主義、軍拡競争といった複雑な要因の積み重ねが戦争を引き起こしたと考える研究者もいれば、ドイツ政府やロシア皇帝など、特定の個人や集団に責任があると主張する専門家もいます。
実際、1919年のヴェルサイユ条約第231条(いわゆる「戦争責任条項」)ではドイツに単独の開戦責任を負わせましたが、その後の歴史研究の進展により、責任は複数の国に分散していたことが次第に明らかになってきました。最終的にこの問いへの答えは見解によって異なり、議論は今後も長く続くと考えられます。
第一次世界大戦の原因とされる主な要因
ナショナリズム(民族主義)
19世紀のヨーロッパでは、ナショナリズムが大きく高揚しました。これは、人民主権の思想を広めたフランス革命の影響も一因です。高まる民族主義は、欧州各国の間に競争意識と対立感情をもたらすことになりました。
帝国主義
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19世紀後半、ヨーロッパ列強はアフリカ、アジア、中東の植民地獲得をめぐって激しく競合していました。モロッコ事件などをきっかけとしたこの覇権競争が、列強間の緊張を一段と高める結果となりました。
軍拡競争
20世紀初頭、ヨーロッパ列強は戦争に備えて軍備の増強を進めました。とりわけイギリスとドイツの間の建艦競争は有名で、こうした軍拡競争は各国間の相互不信と緊張をさらに深刻化させました。
サライェヴォ事件(フランツ・フェルディナント大公暗殺)
1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公が、ボスニアのサライェヴォでセルビア人青年によって暗殺されました。これが第一次世界大戦の直接的な引き金となり、一連の外交危機が連鎖して、同年7月28日の開戦へと至りました。
なお、これらはあくまで代表的な要因の一部です。戦争勃発の説明は一つではなく、複数の要因が組み合わさった結果である可能性が高いとされています。
責任を問われてきた国々と政府
ドイツ政府
ドイツ政府は、フランスとロシアに対して迅速な勝利を目指す軍事作戦「シュリーフェン・プラン」を保有していたことから、しばしば強い責任を問われてきました。また、同盟国オーストリア=ハンガリーに対して無条件の支持(いわゆる「白紙委任状」)を与えたことも、開戦を促したとして批判の対象となっています。
ロシア政府
ロシア政府も、総動員令の発布によって責任の一端を問われています。ロシアの動員はドイツに宣戦の口実を与えることになり、1914年8月1日、ドイツはロシアに対して宣戦布告を行いました。
フランス政府
フランス政府については、1894年にロシアと結んだ露仏同盟が挙げられます。この同盟により、フランスはロシアがドイツから攻撃された場合に援助する義務を負うことになり、戦争の拡大を構造的に助長したと指摘されます。
イギリス政府
イギリス政府に関しては、1904年の英仏協商と、それに続く両国間の軍事的協議が指摘されます。これによりイギリスは、フランスがドイツから攻撃された際に支援へ向かう立場へと接近していきました。ただし、英仏協商自体は元来植民地問題の調整を目的としたものであり、厳密な意味での秘密軍事同盟ではなかった点には留意が必要です。
オーストリア=ハンガリー政府
忘れてはならないのが、最初に宣戦布告を行ったオーストリア=ハンガリー政府です。同政府はサライェヴォ事件を口実にセルビアへ過酷な最後通牒を突きつけ、1914年7月28日に宣戦布告に踏み切りました。この決定が、地域紛争を全欧規模の大戦へと拡大させる直接の起点となりました。
まとめ
繰り返しになりますが、ここで挙げたのは責任を問われてきた主体の一部にすぎません。第一次世界大戦の勃発を単一の原因で説明することはできず、複数の要因と各国の意思決定が絡み合った結果だったと考えられています。後に「7月危機」と呼ばれる外交的混乱の中で、各国指導部の誤算と硬直した対応が相まって、世界は取り返しのつかない大戦へと足を踏み入れることになったのです。