第一次世界大戦の責任を、たった一人の人物に帰することはできません。この戦争は極めて複雑で多面的な出来事であり、ヨーロッパにおけるナショナリズム(民族主義)、帝国主義、軍国主義の台頭といった構造的な要因に加え、1914年の開戦へと直結した一連の外交危機など、数多くの要素が絡み合って引き起こされたものだからです。
戦争を招いた背景的要因
ナショナリズムと帝国主義の対立
19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパ各国では民族主義的な感情が高揚していました。バルカン半島では多民族国家の解体に伴う独立運動が活発化し、セルビアの民族主義はオーストリア=ハンガリー帝国との緊張を一層深めていました。同時に、列強諸国は植民地や勢力圏をめぐって帝国主義的な競争を繰り広げており、これが国際関係全体を不安定なものにしていたのです。
軍拡競争と同盟システム
イギリスとドイツの間での建艦競争をはじめとする軍拡競争は、各国間の相互不信を助長しました。さらに、二国間同盟が連鎖的に結ばれた結果、ヨーロッパは「三国協商(イギリス・フランス・ロシア)」と「三国同盟(ドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリア)」という二大陣営に分断されていました。この同盟システムは、もともとは戦争抑止を目的としたものでしたが、皮肉にも局地的な紛争を全欧規模の戦争へと拡大させる危険性を内包していました。
1914年、開戦への道程
1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント皇太子がサラエボでセルビア人青年によって暗殺されると、情勢は急速に悪化しました。いわゆる「七月危機」において、オーストリア=ハンガリーはセルビアへの最後通牒を発し、宣戦布告に至ります。そこから同盟義務に基づく参戦が連鎖し、わずか一か月余りでヨーロッパ中が戦火に包まれることになったのです。
歴史学における「戦争責任」論議
戦後、1919年のヴェルサイユ条約第231条では、ドイツとその同盟国に戦争の「侵略責任」があると規定され、賠償請求の根拠とされました。しかし、現代の歴史学では、この見解はあまりに単純化されているとされています。1960年代以降、フリッツ・フィッシャーらの研究によってドイツの戦争計画への関心が高まった一方、各国首脳の判断ミスや外交上の失策、軍部の先制主義など、多角的な視点からの分析が進んでいます。
つまり、第一次世界大戦の責任は特定の個人ではなく、当時の国際システムそのもの、そしてそれを運用した各国の指導者たちが集合的に負うべきものだと言えるでしょう。一人の暗殺者が引き金となったように見えても、その背後には長年にわたって積み重ねられた対立と誤解、そして危機管理の失敗が横たわっていたのです。