1963年の創立以来、今週の人物伝の主人公の名を冠する国立大学は、科学分野を中心に様々な専門職の人材育成に貢献してきました。長い歳月の中で学部を拡大し続け、今日では最も権威ある公立高等教育機関の一つに数えられています。その名を耳にすれば、リマ市サン・ミゲル区に主要キャンパスを構えるこの学び舎をすぐに思い浮かべる方も多いでしょう。しかし、国家的知識人の代表格とも言うべきこの人物の生涯と業績については、実はあまり知られていません。今回の人物伝シリーズ「そして、あの人は誰だったのか?」では、博識な多言語話者であり、数学者、大学教授でもあったフェデリコ・ビジャレアルの足跡をたどります。
生い立ちと類まれな数学の才能
フェデリコ・ビジャレアルは、ペルーで最初に「数学の専門家」と呼びうる人物です。この精確科学の著名な学者は、1850年にランバイエケ県トゥクメに生まれました。幼い頃から数学に特別な関心を示し、その類まれな適性によって、わずか20歳にしてトルヒーヨの県公共教育委員会から教育者の資格を授かりました。
ニュートンの二項定理への挑戦
トルヒーヨの重要な教育機関から教育者として認められてから3年後、ビジャレアルの探究心は大きな成果へと結実します。ニュートンの二項定理を解き、任意の多項式を任意の累乗に展開する方法を発見したのです。これは当時、ペルーの数学専門の教員たちの間でも誰も成し遂げていなかった偉業でした。
サン・マルコス大学での学業
「純粋数学において完成されるべき公式と方法」という論文により、1879年にサン・マルコス国立大学理学部数学科の学士号を取得しました。翌年には「恒星円盤に対する屈折の影響」という論文を見事に発表。さらに1881年には三次曲線の分類に関する論文を提出し、数学博士号を獲得しています。
太平洋戦争への従軍
数学への純粋な情熱に加えて、ビジャレアルは故郷への深い愛情を持つ模範的な市民でもありました。それは1879年に始まった太平洋戦争で証明されます。チリ軍によるリマ包囲を食い止めようとした際、モロ・デ・ソリージョス、サン・フアン、ミラフローレスの各戦闘での活躍が際立ち、自らも重傷を負いました。ペルー・ボリビア同盟と南隣国チリとの間で4年間続いたこの戦争の中で、ビジャレアルは第18歩兵大隊の少尉まで昇進しました。
技術者としての第二のキャリア
31歳の時、ペルー初の職業的科学数学者となっていたビジャレアルは、旧工科学校に入学し、土木技師として、その後鉱山技師としても卒業しました。優れた学術的訓練だけでなく、哲学的実証主義にも通じる資質と姿勢を備えていた彼は、生涯を通じて教育分野との関わりを常に求め続けました。
教育者・研究者としての業績
三次曲線の分類に関する博士論文は、若き学者が母校の理学部で数学、天文学、力学の講義を担当するきっかけとなりました。ビジャレアルは600以上の科学関連記事を執筆したとされ、その内容は橋梁、鉄道、道路の建設といった実践への応用を指向したものや、衛生工学に関する著作まで多岐にわたります。
教員時代には、正多面体の体積、置換による積分法、梁の曲げ理論や柱の耐力に関する解説と計算など、幅広いテーマで研究成果を上げ、その名を馳せました。
歴史家としての一面
歴史家としての顔はあまり知られていませんが、1902年には征服時代のランバイエケの歴史について全2部構成の書物を出版しています。第1部ではペルー北岸への19回の遠征を取り上げ、遠征を率いた隊長たちについて詳述。第2部では最初の司祭や修道士たちの到来を扱い、聖職者たちについても同様に綿密な記述を残しています。
多言語話者として
ビジャレアルは著名な多言語話者でもありました。英語やフランス語など複数の西洋言語を深く理解していたほか、言語の統一を目指す世界的な試みであるエスペラントにおいても、十分に使いこなせるほどの語学能力を身につけていました。20世紀の最初の10年間には、ペルーにおけるエスペラント関連の唯一の雑誌「Anteneunesperantistoy」の編集に貢献し、より多くの人々へ知識を広めることに尽力しました。
晩年と遺したもの
フェデリコ・ビジャレアルは、ペルー初の真の実証主義的科学家と見なされています。あらゆる研究と仕事において、結論に到達するため常に科学的方法を用いた学者でした。1923年6月3日、ビジャレアルはこの世を去りました。彼とともに、ペルーは絶え間ない発見と探究に人生を捧げた一人の偉大な人物を失ったのです。