南アメリカの歴史

コスタ・エ・シルバとは?ブラジル第27代大統領の生涯と軍事独裁政権「アノス・デ・ホンブ」の時代

アルトゥール・ダ・コスタ・エ・シルバ(Artur da Costa e Silva)は、ブラジルの軍人・政治家であり、ブラジル連邦共和国の第27代大統領です。1967年から1969年まで約2年間、大統領を務めました。その任期は軍事独裁政権下で最も抑圧が強まった時期の一つであり、「アノス・デ・ホンブ(鉛の時代)」として知られています。

プロフィールと経歴

コスタ・エ・シルバとは?ブラジル第27代大統領の生涯と軍事独裁政権「アノス・デ・ホンブ」の時代

コスタ・エ・シルバは1899年10月3日、リオグランデ・ド・スル州タクアリに生まれました。父はアレイショ・ロシャ・ダ・シルバ、母はアルメリンダ・メスキータ・ダ・コスタ・エ・シルバです。

軍人としての教育はポルトアレグレ陸軍士官学校(コレージオ・ミリタール・デ・ポルトアレグレ)で始まり、その後リオデジャネイロのレアレンゴ陸軍士官学校(エスコーラ・ミリタール・デ・レアレンゴ)に進学しました。勤勉な学生だった彼は、士官候補生から少尉、将軍を経て、最終的にブラジル陸軍の元帥にまで昇りつめています。

1922年にはテネンチスモ(青年将校運動)に参加して逮捕されました。さらに1932年にはサンパウロで起きた立憲主義革命にも加わっています。

1940年代初頭にはアメリカ合衆国で勤務し、1950年代にはブラジル大使館付き武官としてアルゼンチンに2年間駐在しました。

カステロ・ブランコ政権下では、1964年4月4日から1966年6月30日までブラジル陸軍大臣を務めました。また1964年には、わずか1か月足らずですが鉱山エネルギー大臣も兼任しています。この時期、彼はカステロ・ブランコ大統領とともに、ジョアン・グラウト大統領を追放した1964年の軍事クーデターの立案・実行において中心的な役割を果たした人物でした。

死去

コスタ・エ・シルバは1969年8月に脳卒中を発症し、大統領職を離れました。同年12月17日、リオデジャネイロにて70歳で亡くなっています。

コスタ・エ・シルバ政権の特徴

コスタ・エ・シルバは1966年に大統領に選出され、1967年3月15日から1969年8月31日まで在任しました。この時代は軍事独裁政権の中でも最も厳しい抑圧期の一つであり、強い政治的動揺、拷問、逮捕、死者が相次いだことから「アノス・デ・ホンブ(鉛の時代)」と呼ばれています。

第5号組織法(AI-5)の発布

1968年12月に発布された第5号組織法(AI-5)は、大統領に絶大な権限を与えるものでした。これにより国民議会、州議会、市議会が閉鎖され、立法・行政の各級の議員任期も取り消されました。AI-5は強烈な弾圧の時代の幕開けとなり、ブラジル軍政史上最も困難な局面の一つとされています。政府に反対する軍人や市民に対しては、さまざまな種類の拷問が行われました。

経済政策と行政改革

一方で経済面では、インフレーションとの闘いや対外経済関係の拡大に力を注ぎ、行政改革を推進するとともに、通信・交通網の整備を進めました。

広域戦線(フレンテ・アンプラ)の解体

彼の政権下では、野党による「広域戦線(Frente Ampla)」運動が壊滅させられました。この運動は1966年にカルロス・ラセルダによって創設され、ジュセリーノ・クビチェックやジョアン・グラウトが支援していたもので、国家の民主化、大統領直接選挙の実施、新憲法の制定を提唱していました。

学生運動と「10万人行進」

1968年以降、学生たちによる激しい政治的抗議活動が高まり、リオデジャネイロでは「10万人行進」が実施されました。きっかけとなったのは、軍人によって高校生エドソン・ルイス・デ・リマ・ソウトが殺害された事件です。加えて、教育予算の不足や教育の民営化への不満も学生運動を後押ししました。

1969年、コスタ・エ・シルバは健康上の理由で大統領職を解かれ、軍事評議会(軍事ジュンタ)が後を継ぎました。

豆知識

サンパウロの高速道路「ミニョン(Minhocão)」は、正式名称を「プレジデンテ・コスタ・エ・シルバ高架橋」といいました。しかし2016年、その名称は「プレジデンテ・ジョアン・グラウト高架橋」へと変更されています。