1937年憲法は、ブラジル史上4番目の憲法であり、共和制時代としては3番目に制定された憲法です。
1935年のポーランド憲法に代表されるようなファシズム的な法制に着想を得ていたことから、「ポーランド憲法」という通称で広く知られています。
憲法本文は法学者フランシスコ・カンポス(Francisco Campos)によって起草され、1937年11月10日に公布されました。

新憲法について国民に語りかけるヴァルガス。『ジョルナル・ド・ブラジル』紙(1937年11月19日付)一面の詳細。
歴史的背景
1930年代、自由主義民主主義は次第に信頼を失い、世界はドイツのナチズムやイタリアのファシズムといった全体主義的なイデオロギーへと傾斜していきました。同様に、スターリンが掲げた社会主義も、ますます権威主義的かつ中央集権的な性格を強めていきました。
ブラジルにおいて、こうした政治潮流は、ソ連と連携したブラジル共産党と、ファシズムの影響を受けたブラジル統合主義行動(AIB)によって代表されていました。
ジェトゥリオ・ヴァルガス(Getúlio Vargas)大統領自身も、より中央集権的な政治体制を志向する姿勢を示していました。彼は1934年制憲議会の選挙実施を先延ばしにし、権力を自らの手に集中させ続けたことで、多くの政敵の反発を買うことになりました。
1934年憲法は自由主義的で分権的な内容であり、民主主義がブラジルに復活したかのように見えました。ヴァルガスは就任の際、この憲法に対して忠誠を誓いましたが、その翌日には「私はこの憲法の修正者となるだろう」という有名な言葉を口にしています。
その翌年、ヴァルガスはルイス・カルロス・プレステス(Luís Carlos Prestes)率いる共産主義者たちによるクーデター未遂事件に見舞われます。
「コミュニスタ暴動(Intentona Comunista)」として知られるこの事件は、2年間に及ぶ弾圧と恣意的な逮捕を引き起こし、ヴァルガスが権力を固める口実として利用されることになりました。
さらに1937年には、共産主義者による謀議とされたもう一つのクーデター計画、いわゆる「コーエン・プラン(Cohen Plan)」が発覚します。この脅威に直面したヴァルガスは、「新国家(Estado Novo)」体制の樹立を宣言しました。彼は一挙に代議院と元老院を解散させ、新しい憲法を国家に交付しました。本来この憲法は国民投票を経るはずでしたが、投票が実施されることはありませんでした。
1937年憲法の主な特徴
- 州知事(介入官)の任命権が大統領に与えられ、介入官が市町村の行政長官を任命することになった
- 選挙司法および政党が廃止された
- マンダムス令状(保護命令)や人民訴訟の権利が停止された
- メディアに対する事前検閲制度が導入された
- メディアには政府の公式発表を掲載・放送する義務が課された
- ストライキの権利が禁止された
- 政治犯罪に対して死刑が科されることになった
- あらゆるレベルの立法府が廃止され、市議会も州議会も存在しなくなった

地域選挙裁判所の活動終了を伝える記事(1937年11月14日付)。
影響と結果
1937年憲法の施行により、大統領の権力は中央集権化の頂点に達しました。リオデジャネイロで行われた象徴的な式典では州旗が焼却され、地方の賛歌や地域政党は禁止されました。
ヴァルガスは1938年にも統合主義者による新たなクーデター未遂に直面しましたが、これは速やかに鎮圧されました。こうして彼は独裁的な統治を続け、1945年、軍部とブラジル保守勢力の一部によって画策されたクーデターによって権力の座を追われるまで、その地位を維持することになります。