人種隔離の起源:植民地時代から奴隷制へ
アメリカ合衆国における黒人と白人の分離(人種隔離)は、植民地時代にまで遡ることができますが、制度的に確立したのは、17世紀から19世紀にかけて続いた奴隷制の時代でした。この時期、黒人は財産として扱われ、白人との社会的・法律的な区別が日常的に行われていました。
ジム・クロウ法による隔離の法制化
しかし、法的な人種隔離として本格化したのは、南北戦争後の再建期(1865年〜1877年)においてです。奴隷制が廃止された後、アメリカ南部諸州では「ジム・クロウ法」と呼ばれる一連の法律が次々と制定されました。これらの法律は、学校、公共交通機関、レストラン、トイレなど、あらゆる公共施設やサービスを人種に基づいて分離することを義務付けるものでした。
1896年の最高裁判決「プレッシー対ファーガソン事件」では、「分離すれども平等(separate but equal)」という原則が認められ、人種隔離に法的な正当性が与えられたことも、隔離体制を長く維持する要因となりました。
公民権運動と隔離の終焉
こうした合法的な差別に対し、20世紀半ばから公民権運動が本格化します。1954年の「ブラウン対教育委員会事件」判決によって公立学校の人種隔離は違憲とされ、ローザ・パークスによるバス boycott(ボイコット)などの抗議活動が全米に広がりました。
そして、1964年の公民権法(Civil Rights Act)および1965年の投票権法(Voting Rights Act)という歴史的な立法の成立により、数十年にわたって続いた合法的な人種隔離と差別にようやく終止符が打たれたのです。