南アメリカの歴史

1832年の関税法に対する南部の反応は?経済的打撃から無効化危機まで

1832年の関税法は、アメリカ合衆国南部諸州に激しい反発を引き起こしました。農業、とりわけ綿花栽培に大きく依存していた南部は、この関税を自らの経済的利益を害する差別的な政策であると捉えていました。ここでは、南部の反応を経済・政治・歴史の各側面から詳しく見ていきます。

なお補足として、「憎むべき関税(Tariff of Abominations)」という呼び名は本来1828年の関税法に対して付けられたものですが、1832年の関税法はその延長線上にある政策であり、両者は一連の関税問題として南部の強い反発の対象となりました。

1. 経済への影響

- 関税は輸入工業製品に高率の課税を行い、南部の人々が商品を購入する際のコストを押し上げました。その結果、生活費が上昇し、南部消費者の購買力は低下しました。
- この関税は北部の産業、特に繊維産業や製鉄業に有利に働き、南部の農業製品に対して不当な優位性を与えるものとみなされました。
- 綿花やタバコの輸出に依存する南部のプランター(大農園主)たちは、貿易関係への悪影響やヨーロッパ側の報復措置の可能性など、競争圧力の高まりに直面しました。

2. 政治的不満

- 南部は、この関税を北部主導の議会が自らの経済的利益のために南部経済を犠牲にした、政治的動機に基づく施策であると受け止めました。
- ジョン・C・カルフーンをはじめとする南部の有力政治家たちは、この関税を違憲であり州の権限(州権)の侵害であると公然と非難しました。

3. 無効化危機(Nullification Crisis)

- これに対し、綿花の主要生産地であるサウスカロライナ州は極めて過激な対応に出ました。同州は1832年に「無効化条例」を可決し、連邦の関税法を州域内において無効であると宣言したのです。
- この無効化危機により、国は内乱寸前の状況に陥りました。アンドリュー・ジャクソン大統領は、連邦法を執行するためなら軍事力の行使も辞さない姿勢を示しました。

4. 1833年の妥協

- 危機を収束させるため、議会は1833年に関税妥協法を成立させ、数年をかけて段階的に関税率を引き下げることになりました。
- この妥協によって一時的な緊張緩和が実現しましたが、関税をめぐる南北間の根本的な対立は解決されないまま残されました。

まとめ

南部は1832年の関税法に対して、経済的苦痛、政治的不満、そして連邦政府の権威への公然たる挑戦という形で反応しました。この関税問題は南北間の地域対立を一層深刻化させ、やがて南北戦争へとつながる亀裂を深める重要な要因となったのです。