南北戦争の開戦当時、テネシー州は南部諸州の中でも連邦(合衆国)からの離脱に最後まで踏み切りかねていた州のひとつでした。しかし最終的には1861年6月8日、住民投票における圧倒的多数の賛成を得て、正式にアメリカ連合国(南部同盟)側につくことを決断しています。
当初は離脱に慎重だったテネシー州
実はテネシー州は、最初から離脱を目指していたわけではありません。1861年2月に行われた最初の住民投票では、連邦からの即時離脱案は否決されました。特に州東部の山岳地帯では強い親連邦感情が根付いており、州全体の民意は大きく割れていたのです。
転機となったサムター要塞の戦い
状況が一変したのは、1861年4月のサムター要塞の戦いです。リンカーン大統領が各州に叛乱鎮圧のための兵員動員を呼びかけると、テネシー州のイシャム・ハリス知事はこれを拒否しました。「北部による南部への侵略」という構図が浮き彫りになるなか、他の南部諸州と運命を共にすべきだという世論が急速に高まっていきます。
1861年6月8日、正式な離脱へ
州議会は同年5月、連邦との関係断絶とアメリカ連合国への加盟方針を決議し、その承認を住民投票に委ねました。6月8日の投票では賛成約10万4000票、反対約4万7000票と、およそ7割という圧倒的多数が離脱を支持。こうしてテネシー州はバージニア州などに続く後発の離脱州となり、正式に南部同盟の一員となったのです。
離脱を支持した主な理由
- 奴隷制をめぐる経済的結びつき: 綿花やタバコなどを中心とした農業経済が奴隷労働に依存しており、南部諸州との利害が密接に一致していました。
- 南部への帰属意識: 文化的・歴史的なつながりの深さから、「同じ南部人と武器を取って戦うことはできない」という感情が広範に共有されていました。
- ハリス知事の強力な指導: 離脱派の中心人物である知事の積極的な政治工作が、世論の急速な転換を後押ししました。
州内で割れた民意
ただし、投票結果は満場一致ではありませんでした。東部テネシーの山間部では連邦残留派が多く、戦争中も同地域からは連邦軍側に立つ住民が数多く現れています。こうした地域的な分裂は、テネシー州を南北戦争中最激化の戦場のひとつへと変え、戦後の復興(レコンストラクション)の過程にも大きな影響を残すことになりました。
このようにテネシー州の離脱は、突発的な決断ではなく、開戦という現実と南部への連帯感によって段階的に形成されたものだったといえます。