農奴制の終焉
1861年3月3日(当時ロシアで用いられていたユリウス暦では2月19日)、ロシア皇帝アレクサンドル2世は「農奴解放令」を発布しました。これにより、数百万もの農奴が長年にわたる束縛から解放されることになりました。ロシア史上最大級の社会改革とされるこの劇的な決断は、実に長い歳月をかけて準備されてきたものでした。
啓蒙時代から続いた改革への模索
農奴制を見直すという構想自体は、決して突発的に生まれたものではありません。早くもエカチェリーナ2世(大帝)の治世には、啓蒙思想がもたらす自由主義的な潮流に影響を受け、領主と農奴の間の法的・社会的関係を改革し、農民により多くの自由と財産を与える計画が議論されていました。
貴族たちの中にも変化の兆しは見られました。一部の貴族は自らの判断で所有する農奴を解放したり、領地の運営においてより柔軟な搾取方法を採用したりしていました。しかし、大多数の貴族は、経済的な利害、社会的な特権意識、そして伝統への心理的な執着といった理由から、農奴制を頑なに守り続けようとしていました。
解放後のロシア社会
農奴解放令によって、農民たちは人身の自由とともに土地の割当てを受けることになりました。ただしその代償として、政府から借り受けた「贖還金」を原則49年かけて支払う義務を負いました。さらに、割当てられた土地の面積は必ずしも十分なものではなく、多くの農民は従来よりも狭い土地での生活を余儀なくされました。こうした不満はのちの社会不安の一因となりました。
それでも農奴制の廃止は、ロシアを近代国家へと転換させる大きな第一歩となりました。地方自治機関ゼムストヴォの創設や司法制度改革をはじめとする一連の「大改革」は、この解放令を起点として展開していきました。数百年に及んだ旧来の身分制度に終止符を打ったこの改革は、ロシア社会のあり方を根本から変えた歴史的な転換点だったのです。