早くも1944年には、自由フランスとシャルル・ド・ゴールは、平和が戻った暁に実施すべき社会・制度改革について検討を始めていた。その中でもフランスにおける女性の選挙権は、極めて象徴的で、長年待ち望まれてきた施策であった。およそ1世紀にわたり、フランス人女性は普通選挙から排除され続け、結果としてフランスは、この不合理を是正したヨーロッパで最後の国の一つとなった。女性が初めて投票箱の前に立ったのは、1945年4月29日に行われた市町村選挙である。
革命からサフラジェット運動へ
皮肉なことに、女性の政治参加への願いを打ち砕いたのは、自由と平等を掲げたフランス革命そのものであった。1789年、アベ・シエイエスは市民を「能動的市民」と「受動的市民」に区分し、女性を子どもや外国人、選挙税を納められない者と同じく後者に分類した。コンドルセの訴えにもかかわらず、女性は1789年12月22日、国民議会によって正式に選挙権を否定された。この排除は1791年憲法、さらに1793年7月24日の国民公会の採決によっても維持された。それは『女性及び女性市民の権利宣言』の著者オランプ・ド・グージュが処刑される数か月前の出来事である。
19世紀を通じて、女性たちは政治から締め出されるという不合理に立ち向かい続けた。新聞紙上での論陣、クラブの結成、公の場での演説、請願活動、デモ行進、選挙人名簿への登録の試みなど、この闘いは次第に世論の耳目を集めるようになった。海峡の向こうの「サフラジェット」たちのような直接的行動や過激な手段こそ取らなかったものの、フランス人女性の選挙権を求める声は、終始揺るぎないものであった。
女性参政権を阻んだ強固な抵抗
20世紀前半、女性に選挙権を付与する法案は、代議院(下院)で幾度となく可決されながらも、元老院(上院)によって審議の無期限延期や反対票という形で葬られてきた。元老院こそが、この措置の実現を妨げる最大の制度的障壁であった。議会多数派の中心にいた急進派は、政治的な均衡を崩しかねない改革に耳を貸そうとはしなかった。彼らは女性が聖職者たちの影響下にあると疑い、その政治的成熟度は共和主義への忠誠心とともに疑わしいものと捉えていたのである。
1919年以降、教皇が女性参政権を強く支持したことで、教会が女性を通じて社会への影響力を回復しようとしているのではないかという疑念が、急進派の間でいっそう深まった。第三共和政下のフランスは、女子教育の振興を進め、1936年にはレオン・ブルム率いる人民戦線政権が3名の女性国務次官を任命したにもかかわらず、ついに一歩を踏み出すことはなかった。代議士たちは依然として消極的であり、元老院議員たちはなおざら、「帽子(=女性)」の脅威から「共和主義」の殿堂を守ることに細心の注意を払い続けたのである。
ついに届いた女性たちの声
この闘いが完全な正当性を帯びることになったのが、第二次世界大戦中である。男性たちが前線に赴くなか、女性たちは労働に従事し、戦争遂行を支え、ときにはレジスタンス活動に身を投じながら、家庭と家族の面倒も見続けなければならなかった。レジスタンスから生まれた、より若い新政権は、主要な民主主義諸国の歩みにならい、女性たちに市民としての完全な責任を認めた。こうしてアルジェに樹立された政府は、きわめて自然な帰結として、1944年4月21日付けの勅令(オルドナンス)により女性に選挙権を付与することを決定した。これにより女性は、男性とまったく同じ条件で選挙権と被選挙権を手にしたのである。
1945年10月に行われた二重の国民投票――新体制の承認と制憲議会の権限制限、そして制憲議会議員選挙――において、女性たちは初めて国政レベルの投票に参加した。1947年に創設されたド・ゴール主義政党RPF(フランス人民連合)の支持基盤に、またその後、ド・ゴール将軍が政権に復帰した際に彼を支えた多数派の中に、女性有権者が大きな比重を占めていたことは疑いようがない。反教権主義の急進派が恐れていたのは、まさにこの光景であった。
その後、状況は変化し、女性有権者の投票行動は男性有権者との差が縮まり続けている。ただし、人口構成の関係で高齢層では女性の方が男性よりはるかに多いため、高齢女性の票がやや保守的に傾く傾向があることは説明に値するだろう。女性は今や有権者となった。しかし、真の男女平等への道のりは、まだ長い……。
フランスの女性参政権に関する参考文献
Anne-Sarah Bouglé-Moalic『Le vote des Françaises : Cent ans de débats 1848-1944』(フランス女性の投票――100年の論争 1848-1944)、Presses universitaires de Rennes、2012年。