19世紀半ばまで、ドイツ沿岸部の住民の多くは、難破船から流れ着いた漂流物で生計を立てていた。海の男たちに救いの手が差し伸べられることはなかった。この状況が変わったのは、1865年にキールで「ドイツ海上遭難者救助協会(DGzRS)」が設立されてからのことである。
文:ディルク・ヘンペル
19世紀半ばのドイツ北海沿岸では、毎年約50隻もの帆船が遭難していた。しかし、実際に稼働している救命艇はわずか1隻。しかも、砂州や浅瀬の間、霧や嵐の中で船乗りたちの進路を示す灯台や航路標識さえ不足していた。
浜辺の拾得物は歓迎される副収入
19世紀半ばまで、沿岸住民の多くはいわゆる「浜辺の略奪」で生計を立てていた。
伝統的な「浜辺法」では、拾得者が難破船の一部や回収した積荷を自分のものにしてよいことになっていた。誰も遭難者の死を望んでいるわけではないが、漂流物は歓迎すべき副収入だった。「神よ、浜辺を祝福したまえ」と、東フリースラントの教会で農民や漁師たちは祈っていたという。
帆船「アリアンツ」の沈没が転換点に
転機が訪れたのは1860年のことだ。9月10日の朝、イングランドからゲーステミュンデへ石炭を運ぶ予定だったハノーファー王国のブリッグ船「アリアンツ」が、ボルクム島沖で座礁した。搾乳婦たちが9人の乗組員の叫び声を耳にした。島民の一部はそれを砂丘に響く幽霊の悲鳴だと浴場客に言い聞かせ、別の島民たちはすでに浜辺で漂流物を狙って待ち構えていた。それでも浜へ駆けつけた目撃者たちは、船乗りたちが次々と波にさらわれ溺れていくのを見守るしかなかった。遺体は長い間浜辺に横たわり、その間にボルクムの人々は難破船を略奪していった。
衝撃を受けた市民たちがDGzRSを設立
DGzRSの創設者たち:アドルフ・ベアムポール、ゲオルク・ブロイジング、アルヴェット・エンミングハウス。
この出来事はドイツ中の新紙で報じられ、「中世的な野蛮行為」への憤りが広がった。フェーゲザックの航海学校教員アドルフ・ベアムポールも記事を読み、英国のモデルに倣った救助ステーションの設立を訴えた。ここからエムデンとジルト、フレンスブルクとメーメルの間で意識改革が始まる。沿岸住民はようやく遭難した船乗りたちを救う意志を持つようになり、エムデンの税関職員ゲオルク・ブロイジングのような熱心な市民たちが各地で協会を立ち上げていった。
各地の救助組織を1865年5月29日にキールで統合し、「ドイツ海上遭難者救助協会」として発足させる原動力となったのは、ブレーメンのジャーナリスト、アルヴェット・エンミングハウスだった。北ドイツ・ロイド汽船会社の共同創業者である船主ヘルマン・ハインリヒ・マイヤーが会議の議長を務めた。
救助ステーション50カ所に必要だった10万ターラー
本部をブレーメンに置くDGzRSには、まず50カ所の救助ステーション設置のために10万ターラーが必要で、さらに年間最大1万5000ターラーの運営費がかかった。当時の理事会は、今日まで続く二本立ての寄付モデルを考案した。マイヤーは1000ターラー単位の大口寄付に注力し、エンミングハウスは小額寄付の呼びかけを推進した。その結果、まもなくドイツ全土から寄付が集まり、救助活動の発展を後押しすることになった。黒・白・赤の募金箱は1875年から登場し、当時はバイエルンやオーストリアにも設置されるほど普及した。
「パンツ型浮き輪」による救出活動
「トラウザー・ブイ(パンツ型浮き輪)」を使って遭難者を岸へ引き上げた。
協会設立の翌年、北海とバルト海の隊員たちは141人を海上の危機から救い出した。例えば1866年1月14日にはメーメルの救命艇がプロイセンのバーク船「マリアーネ」から15人を、同年6月18日にはヴストローの救助隊員たちがロシアのスクーナー船「コンスタンチン」から4人の船員を救出している。
1866年、DGzRSは合計122隻の救命艇を運用し、さらに19門の救助砲も備えていた。シュパンダウの王室プロイセン花火研究所が製造したロケット弾により、最大500メートル先の被害船に向かって浜辺から綱を打ち出した。そして、この綱に沿ってズボンが縫い付けられた浮き輪、いわゆる「トラウザー・ブイ」で遭難者を岸へ引き寄せたのである。
手漕ぎボートでの海上救助
ボートはまず馬のチームによって、何百メートルもの距離を砂丘越えで引かれる。その後、救助隊員たちが砕波を漕ぎ抜けていく。
過酷な労働は隊員たちの肩にかかっていた。通常、馬が小屋からボートを引き出し、しばしば数百メートル離れた浜辺まで砂丘の砂の上を引いていく。その後、6人から10人の乗員が極限の体力を振り絞り、危険な砕波の中を手漕ぎで繰り出すのだ。彼らは冷たい海水から身を守るため、防水オイルスキンに南西帽を着用し、上半身に巻いた厚いコルク製ベストが水死から身を守る仕組みだった。特別に開発された「ドイツ標準型救助艇」は全長8メートル、幅2.5メートル。鋼板製で重量はわずか1350キログラム。喫水35センチメートルのため、浅瀬にも対応できた。
出動は何時間も及ぶこともあった。1880年11月、北フリースラントのズーダーヘフトの救助隊員たちは、雷雨の中、座礁した帆船へ向けて漕ぎ出した。帰還したのは14時間後だった。任務報告書にはこう記されている。「午後4時にようやく基地へ戻った。完全に凍え、完全に疲れ果てて」
多くの救助隊員が任務中に命を落とす
ボートは外側をコルクの帯で囲まれ、内部に浮力室があるため沈むことはない。しかし、隊員が波で投げ出されることはある。1869年から1918年の間に21人の救命隊員が海で命を落とした。これまでに任務中の事故で亡くなった人は45人に上る。数十年の間に船舶はより高性能で安全になり、今では転覆しても自力で復元できるようになったが、それでもこの仕事は人命を奪い続けている。例えば1995年、救助巡視艇「アルフリート・クルップ」がボルクム沖の荒れた外洋で暴風雨に見舞われて転覆した。艇長と機関士は波にさらわれ、遺体は事故からかなり経ってからようやく漂着した。
寄付者とボランティアが海上救助の支えに
設立当初から寄付によって運営されている。募金箱は1875年から存在する。
DGzRSの初期において、1870年代に開発された帆走式救命艇はすでに大きな進歩だった。ビューズム、クックスハーフェン、ドルムエルティーフに配備され、甲板上に避難室を備えていた。1890年には北海とバルト海に111の救助ステーションがあり、1000人以上のボランティアが勤務していた。そして約5万人の賛助会員が金銭面で彼らを支えていた。
1911年、DGzRS初のモーターボートが就役
1911年以降、DGzRSはモーター付き救命艇で、海岸から遠く離れた海域の船乗りたちも救助できるようになった。
1911年3月、英国モデルを基にした全長10メートルの初のモーターボートがバルト海のラーボー沖で就航したとき、それは技術革命とも言うべき出来事だった。活動範囲はさらに拡大し、浜辺から遠く離れた海域での海難からも人命救助が可能になった。第一次世界大戦勃発時、DGzRSはすでに14隻のモーター付き救命艇を保有していた。1920年代には無線を装備し、陸上から誘導できる多くの艇が追加された。第二次世界大戦中も、北海34カ所、バルト海67カ所のステーションの海上救助隊員たちは活動を続けた。艇は赤十字の標識を掲げ、ジュネーブ条約の保護下に入り、あらゆる国籍の船乗りたちだけでなく、海上で撃墜された敵機の搭乗員までも救出し続けた。
革新的な船型:自力復元する救命艇
就役後、「テオドール・ホイス」号は最初ボルクムに配備され、後にラーボーへ移された。
1945年以降、DGzRSはドイツ湾とバルト海西部で活動を続けた。一方、東ドイツの海上救助サービスは1990年の再統一まで国営として組織されていた。1950年代、同協会は浅瀬でも使用できる娘艇(小型ボート)を備えた新型の海上救助巡視艇を建造した。1957年に就役し、1985年までDGzRSで活躍した一番船「テオドール・ホイス」号は、転覆しても自力で起き上がる機能などを備えていた。その後の改良により、新型級の救助巡視艇はますます多用途で安全なものになっていった。
海上救助隊、これまで8万6000人以上を救援
設立から約157年の間に、8万6000人を超える人々がDGzRS職員による救助と迅速な支援を受けてきた。2021年だけでも、海上救助隊は北海とバルト海で2023件の出動を行い、約3500人を支援したという。うち約330人は遭難やその他の危険から救い出された。現在、海上救助隊は約60隻の艇で出動している。1865年のDGzRS設立につながった民間主導の精神は、今日でもその基盤となっている。連邦大統領が伝統的に名誉総裁を務めるとはいえ、この組織は依然として寄付のみで運営される民間団体であり、180名の常勤隊員と800名を超えるボランティア救助隊員の手に委ねられている。