パナマ運河は、大西洋と太平洋を100年以上にわたって結び続け、船舶に海路で数千キロメートルもの短縮をもたらしてきました。1914年以前、船は南米大陸の先端を回り込む過酷な航海を強いられ、片方の海からもう片方の海へ貨物を運んでいました。パナマ運河の開通がどれほど大きな安堵と変化をもたらしたか、想像に難くないでしょう。
その開通までには、合計20年に及ぶ建設工事、最初の試みにおける悲惨な失敗、そしてそれ以前の数世紀にわたる夢がありました。パナマに運河を造るという構想は、決してつい最近生まれたものではありません。実に多くの人々がこの夢を思い描いてきたのです。
パナマの「発見」
パナマ運河建設に関する議論は、スペイン人によるいわゆる「アメリカ大陸発見」の時代にすでに始まっていました。そこには本来「発見」されるべき何かなど存在せず、先住民にも発言権があったはずだという点については、ここでは触れないことにしましょう。
パナマ地峡を横断した最初のヨーロッパ人もまた、スペイン人のコンキスタドール、バスコ・ヌーニェス・デ・バルボアでした。1513年に彼がこの発見をヨーロッパへ報告すると、すぐさまパナマ地峡をいかに戦略的に活用するかという検討が始まります。数年後、スペイン王(そしてほぼ兼業のように神聖ローマ皇帝でもあった)カール5世は、パナマでの運河建設を調査するよう命じました。しかし、その後これらの計画について二度と耳にすることはなかったため、調査結果は否定的だったのかもしれません。あるいは皇帝は単に他のことで手一杯だったのでしょう。マルティン・ルターの人生を苦しめる役割も担っていたのですから。
それでも、その後数世紀にわたり、パナマ運河の構想は生き続けました。ヨーロッパ列強の植民地帝国が拡大し、巨大な貿易網を築くにつれ、海上交通も急増しました。大西洋から太平洋への近道は、非常に魅力的なアイデアだったのです。
17世紀末には、なんとスコットランド人が南パナマに進出し、ダリエン地方に植民地を樹立しようと試みました。その狙いの一つには、やはり地峡を新植民地の収入源として活用するという考えがありました。運河であれ、陸上輸送であれ。しかし明らかに考慮されていなかったのは、熱帯気候と病気蔓延する環境の中で、ハイランド出身のスコットランド人たちをいかに生存させるかという点です。その結果は……言うまでもありません。
フランスと挫折したパナマ運河計画
しかし、数世紀にわたって実現不可能に思えたからといって、再挑戦できないわけではありません。19世紀後半、ついにその時が来たように思われました。当時のヨーロッパ列強は、心に決めたことなら何でも成し遂げられる時代を迎えていました。世界の半分を支配していたのですから。どこかで運河を掘るくらい、どれほど難しいことがあるでしょうか?
そして1869年、フランスはそれが可能であることを証明してみせました。この年、スエズ運河が正式に開通したのです。資金調達と計画立案を行ったのは、フランスの会社、あるいはその株主たちでした。スエズ運河のおかげで、東アジアへ向かう際に喜望峰を迂回する必要がなくなり、植民地帝国は膨大な輸送距離を節約できました。さらにスエズ運河は文化的にも絶大な影響力を持ちました。その開通は世界中から熱狂的に歓迎され、ジュゼッペ・ヴェルディはオペラ「アイーダ」によって運河に音楽的な記念碑を捧げさえしたのです。
こうしてフランスの人々は考えました。「エジプトでうまくいったなら、なぜパナマでうまくいかないのか?」と。スエズ運河開通からわずか10年後にパナマ運河会社が設立され、ほどなくコロンビア政府から建設利権を獲得しました。そう、当時パナマはコロンビアの一部だったのです。この件については少し後でお話ししましょう。
建設工事は1880年代初頭に始まり、パナマ運河会社によって実施され、株式と約束手形で資金調達されました。ところが残念なことに、コストはすぐに利用可能な資本を超えてしまいました。黄熱病やマラリアといった熱帯病により、平均して毎日7人の作業員が命を落としていたのですから。フランスにとって外国人労働者の死が大きな憤激の波を呼ぶことはなかったとしても、それは財政面で相当な打撃となりました。1880年代末、会社はついに破産を認めざるを得なくなったのです。
少なくともフランス国家に対しては、破産を認めました。しかしその後、会社はこの破産を秘匿し投資家をつなぎ止めるため、長期間にわたって大量の議員や報道機関に賄賂を贈り続けました。1892年、後に「パナマ疑獄事件」と呼ばれることになるこのスキャンダルが発覚すると、80万人の人々が同社への投資を失いました。これは19世紀最大の汚職スキャンダルであり、自国の植民地帝国のためにパナマ運河を建設するというフランスの夢もまた、歴史の彼方へ消え去ったのです。代わりに彼らは、古い特許と計画図の買い手探しに乗り出しました。では、パナマ運河はいつ、誰によって開通されたのでしょうか?
パナマ運河開通への道
この買い手として最終的に現れたのがアメリカ合衆国で、1902年にフランスから権利を取得しました。当時すでにアメリカは、台頭する第一級の大国となっていました。数年前の米西戦争では、中南米とフィリピンに影響力を拡大していたのです。アメリカ管理下のパナマ運河は、ワシントンの戦略家たちが必要としていたまさにそのものでした。フランスが権利と準備作業に対して望んでいた1億1000万ドルに対し、アメリカが支払ったのはわずか4000万ドルでした。あの『ザ・アート・オブ・ザ・ディール』すらまだ書かれていなかったというのに!
しかし、新しい建設者の前には一つの問題が立ちはだかりました。コロンビアが突如として、アメリカ向けの利権延長に同意しなくなったのです。家の主は、運河建設の続行を禁じました。
この拒絶に対し、アメリカは不満げな反応を示しました。翌1903年、彼らは兵士をパナマへ派遣し、運河地帯を占領したのです。パナマ国内でアメリカと結んだ政治家たちは、コロンビアからの独立を一方的に宣言しました。そして運河地帯は、その独立の一環として「親切にも」アメリカ合衆国へ譲渡されました。ご覧の通り、他国の内政への介入は、アメリカにとってある種の伝統となっているのです。
その後10年間、アメリカはパナマ運河を建設し、その手腕は先行するフランスよりはるかに優れていました。死亡率は1日約2人まで低下しました。外国人労働者の命の価値がアメリカでもフランスと変わらなかったとしても、それは確実にコスト削減につながりました。そして1914年8月、ついにその時が来たのです。ほぼ果てしない建設期間の末、パナマ運河が正式に開通しました。……とはいえ、盛大な祝賀ムードにはなりませんでした。わずか数週間前に第一次世界大戦が勃発していたからです。時には運が悪いこともあるものです。
アメリカがパナマ運河と運河地帯全体の支配権を手放したのは、1999年のことです。パナマ国家が現地の管理を引き継ぎ、2016年には近代的な大型コンテナ船を受け入れられるよう運河の拡張工事さえ完成しました。このビジネスモデルは今日でも機能し続けています。ヨーロッパ人たちが数世紀にわたって守り続けてきた夢は、今も生きているのです。実際、その魅力はあまりに大きく、ニカラグアも現在、独自の運河建設を検討しています。最後に一つ忠告しておきましょう。フランス人を雇うのはやめておくことです!