ヨーロッパの歴史

東ドイツ初の休暇船「国民の友愛号」――社会主義クルーズ客船の栄光と歴史

1960年2月24日、「国民の友愛号(Völkerfreundschaft)」がロストック港から処女航海へと出発しました。東ドイツ(DDR)初の休暇船となったこの客船は、「働く人々」や「功績ある活動家」たちに豪華なクルーズを提供しただけでなく、冷戦期の歴史の表舞台にも立つことになります。

文:ヘニング・ストリューバー

ロストックとクルーズ船の縁

クルーズ船の歴史は、アイーダ・クルーズ社の時代に始まったわけではありません。すでに東ドイツ時代、このハンザ都市ロストックからも休暇船が出航し、「労働者」や「模範的な活動家」たちをバルト海や黒海のリゾートへと運んでいました。東ドイツ・オリンピック代表の選手たちが乗船することもありました。その中でも最初の「社会主義の夢の客船」が「MS 国民の友愛号」です。スパルタクス同盟の共同創設者でありコミンテルンの活動家でもあったフリッツ・ヘッケルトにちなんで名付けられた「フリッツ・ヘッケルト号」――東ドイツのために新造された唯一のクルーズ客船――とともに、「国民の友愛号」は1960年から運航されました。後に加わったのが「MS アルコナ号」。この船はのちに「MS アスター」としてZDF(独第2テレビ)の人気ドラマ『夢の客船』にも登場しました。

「不運な船」から休暇船へ

実は、1960年2月に東ドイツ国旗を掲げて最初の航海に出る前から、この船は悪名高い存在でした。1956年7月25日、「ストックホルム号」としてスウェーデン旗を掲げていた当時、米国東海岸沖の濃霧の中で、倍の大きさを持つ豪華客船「アンドレア・ドーリア号」と衝突事故を起こしたのです。イタリア船籍の「アンドレア・ドーリア号」は沈没し、51人が死亡しました(うち5人は「ストックホルム号」の乗船者)。一方、損傷を受けた「ストックホルム号」はニューヨークへ自力で到達し、修理されました。1960年、東ドイツはこの船を2000万クローネで購入します。

サロンでは喫煙、上甲板ではバレーボール

1960年2月24日、アイーダ社の前身である国営ドイツ海運ロストック(DSR)が運営する「国民の友愛号」は、地中海へ向けた最初の本格的な航海に出発します。その前に、社会主義の夢の客船として大改装が施されました。贅沢さにおいては「敵対する資本主義陣営」の客船に決して引けを取らないことが求められたのです。屋外プールと屋内プール、理髪店、喫煙室、広いダンスフロアを備えたベランダカフェが整えられ、180席の映画館ではDEFA(東独国営映画)制作の最新作が上映されました。スポーツ好きのために卓球があり、上甲板ではバレーボールも楽しむことができました。ボールには紐が付けられ、海に落ちないよう工夫されていたといいます。

「国民の友愛号」の技術データ

  • 建造年:1948年
  • 全長:160.07メートル
  • 幅:21.03メートル
  • 総トン数:12,442 GRT
  • 乗務員:220名
  • 乗客定員:550名
  • 最高速力:19ノット
  • 国籍:東ドイツ(1960〜1985年)
  • 母港:ロストック(1960〜1985年)

元客室係の回想

1976年から1981年まで「MS 国民の友愛号」に乗務していたのが、ラインハルト・ブラント氏です。

「現代のクルーズ船で当たり前になっているようなエンターテインメントは、まだ存在しませんでした」とブラント氏は語ります。シュヴェリーン出身の彼は1975年から1981年まで客室係として乗務し、友人が国外移住ビザを申請したことを理由に国家保安省へ船員手帳を取り上げられるまで勤め上げました。「とても興味深い時代でしたよ。東ドイツの条件の下での船乗り生活。合法的に国外へ出られる唯一の方法だったんです。」客室係としての仕事はゲストのお世話。「朝から晩まできつい仕事でしたね。」

バルト海、黒海、そしてカリブ海

春と秋には自由ドイツ労働総同盟(FDGB)主催の旅行が組まれ、冬には船が一時的にスウェーデンのステナラインへチャーターされました。東ドイツは慢性的な外貨不足に悩んでおり、西側の顧客は好条件を払ってくれたからです。バルト海のシーズンは5月初めに幕を開けます。ひとつの航海は必ず2週間で、友好的な社会主義兄弟国の港を巡るコース。ロストックからグディニャ経由で旧レニングラードへ向かいました。母港に戻れば、すぐに次の乗客の入れ替えです。「乗務員は6〜8週間乗り続けて、その後4週間の休暇をもらっていました」とブラント氏は振り返ります。

狭い海峡では脱出の危険も

「国民の友愛号」はユーゴスラビアのドゥブロヴニクにも足を延ばしました。9月と10月には南の海へ向かい、黒海周遊の旅はヴァルナからヤルタ、ソチを経由して戻るコースでした。「後には旅程が短縮されました。地中海を抜けるこうした航海はもはや望まれなくなり、特定の人しか乗船できなくなったからです。」国家の代表者たち――国家保安省の政治将校が常に乗船していた――は、乗客や乗務員が脱出の機会を利用するのではないかと常に警戒しており、実際にそうした事例も発生していました。「だから狭い海峡、例えばボスポラス海峡の通過時には、誰かが舷側から飛び降りないよう、常に乗務員が見張りに立っていたんです」とブラント氏は明かします。

「毎日がハイライト」

その後はキューバへの航海が続き、冬にはスウェーデン企業によるチャーターが待っていました。春には通常数週間、ヴィスマールの造船所へドック入りします。「だんだん古びてきていましたからね」とブラント氏は回想します。彼が特に気に入っていたのは、ほとんどがスカンジナビアからの乗客を乗せるチャータークルーズでした。「本当に興味深い港ばかりでしたよ。小アンティル諸島ぜんぶ、カリブ海、グレナダからヴァージン諸島まで、カナリア諸島、そして地中海全体。毎日がハイライトでした。私たちは自分たちで楽しみを作っていたんです。」時には乗客相手にバレーボールの試合をすることも。そして、めったにないことですが、全乗客が下船した夜には乗務員だけで小さなパーティーを開いたこともあります。「バイエルンの夕べなんてのもやりましたよ」とブラント氏はよく覚えています。

「国民の友愛号」の船名変遷

  • 1946〜1960年:「ストックホルム号」(スウェーデン)
  • 1960〜1985年:「国民の友愛号」(東ドイツ)
  • 1985〜1986年:「フォルカー号」
  • 1986〜1989年:「フリチョフ・ナンセン号」
  • 1989〜1992年:「スッリエント号」
  • 1993年:「イタリア I」
  • 1993〜2000年:「イタリア プリマ」
  • 2000〜2003年:「ヴァルトゥール プリマ」
  • 2003〜2005年:「カリベ号」
  • 2005〜2012年:「アテナ号」
  • 2013〜2015年:「アゾレス号」
  • 2016年以降:「アストリア号」

世界的事件の渦中で

しかし船上にも冷戦の冷たい空気が忍び寄ります。バルト海と西インド諸島を往復する航海の中で、「国民の友愛号」はたびたび東西対立の最前線に巻き込まれました。1962年10月のキューバ航海では、FDGBとチェコのバカンス客を乗せた船が、アメリカの海上封鎖線を通過。米駆逐艦に2海里の距離から3時間にわたり付きまとわれますが、軍艦は最終的に引き返し、「国民の友愛号」は無事に首都ハバナへ入港しました。6年後にはバルト海で新たな事件が発生。西ドイツの潜水艦追跡艇と衝突したのです。当時その艇は「共和国からの亡命者」を収容しようとしているところでした。さらに1983年にも、同じくバルト海で西ドイツ海軍の潜水艦と衝突しています。幸い、いずれの事件も軽微なもので済みました。

ロストックでは映画スター、ネットでは模型に

しかし老朽化の波は確実にこの老船を蝕んでいきました。加えて船の運航は採算が取れなくなり、「国民の友愛号」は財政難にあえぐ東ドイツ国庫にとって補助金漬けの存在となります。しかし退役直前、この船は特別な栄誉に浴します。休暇船はDFF(東独テレビ)の映画「ミッチェル船長の復讐」の屋外撮影の舞台に起用されたのです。1985年1月、改修が必要となった「国民の友愛号」は売却されます。七大洋を25年間航海し、51か国117の港に寄港し、地球68周分に相当する距離を走破してのことでした。その後、幾度もの改装が、異なる名前と異なるオーナーの下で繰り返されます。今日に至るまで、この船は世界で最も長く現役を務めた大西洋航路の客船であり続けています。

「MS アゾレス」としてロストックへ凱旋

ある意味で、「国民の友愛号」は故郷との絆を今日まで保ち続けてきました。2015年の夏、彼女は数百人のクルーズ客を乗せた「MS アゾレス号」として、かつての母港ロストックを再び訪れます。3年後には再びメクレンブルク=フォアポンメルン州に寄港し、今回はヴィスマールに停泊しました。現在は「アストリア号」として、最大550名の乗客を乗せ、英国の海運会社により運航されています。さらに、このクルーズ船界のベテランの精巧な模型が、メクレンブルク=フォアポンメルン州のバーチャル州立博物館の中を、インターネットという大海原へと帆を揚げているのです。