「王の馬は、グアダレーテ川のほとりで矢にまみれて発見された」
味方の裏切りに遭い、見捨てられたロドリゴ王。北アフリカからの強大な軍勢を前に、半島の主導権を失った。イスラム勢力の支配は、その後7世紀以上にわたって続くことになる。
伝統的に語られる「決定的な戦い」
10世紀・11世紀のアラビア語年代記に基づく伝統的な通説によれば、711年7月19日から26日にかけて、イベリア半島のグアダレーテ川(当時のバエティカ地方)付近で、歴史の行方を左右する決戦が繰り広げられた。
当時の西ゴート王国は、現在のスペインとポルトガルに加え、南仏地中海沿岸のセプティマニア(マルセイユ付近まで)やセウタをも支配する大国だった。しかし王国は深刻な王位継承争いに揺れていた。世俗・教会双方の貴族層の大半の支持を受けたロドリゴが、先代王ウィティザの子アギラ2世から王位を奪取したのである。アギラ2世は廃位され、おそらく殺害されたとみられる。
ロドリゴの即位により王国は分裂状態に陥った。ウィティザ派の貴族たちは表向き新王への忠誠を誓いながら、その背後では彼を排除して王座への道を開こうと陰謀を巡らせていた。彼らが選んだ手段こそ、拡張を続けるムスリム勢力との接触だった。「半島の門を開く」という見返りに、援軍を求めたのである。
ジブラルタル海峡を渡った遠征軍
710年頃、ムーサ・イブン・ヌサイル率いるアラブ軍は、東ローマ帝国領のセプテム(現セウタ)を攻略した。同市を治めていたのはフリアンという人物で、彼は後の征服と伝説において重要な役割を演じることになる。セウタの港と船団は、半島への大規模な軍事作戦を可能にした。
ただし、ムーサ自身はアフリカにとどまり、指揮を部下のターリク・イブン・ズィヤードに委ねた。711年4月27日深夜から28日にかけての夜、ウィティザ派の協力のもと、遠征軍はジブラルタル海峡を渡河した。
陰謀者たちの狙いは、ムスリムの手でロドリゴとその一党を排除することだった。だが彼らは、自分たちがムスリムを利用しているつもりが、実はウマイヤ朝の拡張政策に利用されていたことに気づいていなかった。
両軍の兵力とロドリゴ王の出陣
ターリクは推定7,000人のベルベル人歩兵をタリファに上陸させ、カルテイアを占領、続いてアルヘシラスを確保して、迎撃に出たロドリゴの甥バンチョ(サンチョとも)の攻撃を撃退した。まもなくカリフから5,000の増援が到着し、総勢はベルベル人10,000とアラブ人2,000となった。
一方、西ゴート王ロドリゴはこの間、半島北部パンプロナでバスク人との戦いに従事しており、知らせが届くまでに2〜3週間を要した。貴族間の絶え間ない内紛と骨肉の争いで疲弊していた王国では十分な動員が困難であり、ロドリゴは裏切りを知らないまま、ウィティザ派の「好意的な援助」を受け入れるしかなかった。それでも彼はコルドバで急ごしらえの40,000人の軍を編成し、ターリクを迎え撃つべく出陣した。
なお現代の研究では、実際の戦闘参加兵力はムスリム側約2,000人、西ゴート側約2,500人という推計もある。
戦闘の経過――3度の騎突と決定的な裏切り
ロドリゴの狙いは、決戦によってターリクをアフリカ大陸へ叩き戻すことだった。西ゴート貴族の精鋭が総動員されたこの戦いで、7月19日、ロドリゴ軍はグアダレーテ川のほとりの丘に築かれ、柵で固められたムスリム陣営を視認した。
当日、ロドリゴは攻撃を下令した。丘の斜面を駆け上がる騎兵突撃だったが、地形が狭まるにつれ隊列が乱れ、最初の攻撃はムスリム軍の矢の雨にさらされて大きな損害を受けた。3度にわたる騎兵突撃は、いずれもターリクの陣営を突破できなかった。
翌日も戦闘は続いた。前夜の西ゴート陣営では、ウィティザ派が「侵略者は略奪目当てに過ぎず、懐が満ちれば自国へ帰っていく」と兵士の士気を削ぎ、「戦いの最中にロドリゴを見捨て、ムスリムに彼とその一党を仕留めさせよ」と呼びかけていた。
そして死闘のさなか、両翼を指揮していたウィティザの息子たちが軍を離脱した。数でも装備でも劣勢に立たされたロドリゴ軍は、軽騎兵による素早く致命的な攻撃を繰り返すベルベル軍に包囲され、激戦の末に壊滅した。ターリクの攻撃は凄まじく、西ゴート軍はほぼ完全に打ち砕かれ、西ゴート世界は大惨事へと突き落とされた。
王の最期とトレド陥落
ロドリゴ王はこの戦いで敗れ、ウマイヤ朝軍の手にかかって命を落としたとみられる。王の馬が矢にまみれた状態でグアダレーテ川のほとりで発見されたため、王自身は脱出したのではないかと考える者もいたが、おそらく遺体は流れに呑まれたのだろう。いずれにせよ、以後二度と王の消息を伝える声は聞かれなかった。
この敗北により、ターリクの進軍は止まらなくなった。ロドリゴが王都防衛の武器の多くを戦場に持ち出していたため無防備となっていたトレドは抵抗できず、同年711年末には陥落した。あまりにも完全な敗北は、イベリア半島における西ゴート国家の終焉を意味した。
ムーサの来航と征服の完了
陰謀者たちにとって、貢納と引き換えに王位回復の援助を求めた代償がこれほど高くつくとは、思いもよらないことであっただろう。ターリクの成功を疑うムーサは、712年に自ら18,000人(大部分はアラブ人)の軍を率いて渡海した。目的は、イフリーキヤ=マグリブ総督である自分だけが持つ正統な権威の再確立だった。アルヘシラスから出発した遠征軍はカルモナ、セビリア、メリダを経てトレド地方でターリク軍と合流し、エブロ渓谷、アストゥリアス、ガリシアの占領を、ほとんど抵抗を受けることなく進めていった。
グアダレーテの敗北は、半島のほぼ全域をムスリムの手に落とす結果となった。キリスト教徒の抵抗の火種は半島北部の山岳地帯にのみ残され、そこから将来のレコンキスタ(国土回復運動)が広がっていく。その完結までには、およそ7世紀の歳月を要することになった。
戦いの概要
| 日付 | 711年7月19日〜26日のいずれか(伝統的な日付) |
|---|---|
| 場所 | 諸説あり(カディス県グアダレーテ川流域) |
| 座標 | 北緯36°36′00″/西経6°13′00″ |
| 結果 | ウマイヤ朝カリフ軍の決定的勝利 |
| 交戦勢力 | 西ゴート王国 対 ウマイヤ朝カリフ国 |
| 指揮官 | ロドリゴ(戦死) 対 ターリク・イブン・ズィヤード |
| 戦力 | 西ゴート側:中世の推定4万〜10万/ルイスの推定33,000/コリンズの推定約2,500 ムスリム側:中世の推定187,000/ルイスの推定10,000〜15,000(おそらく12,000)/コリンズの推定約1,900 |