ヨーロッパの歴史

クウィンティリスからユリウスへ――古代ローマ暦が語る7月の歴史と祭り

クウィンティリスからユリウスへ――月の名の由来

共和政ローマの暦における第5の月。この月の名が「クウィンティリス」から「ユリウス」へと改められたのは、執政官(コンスル)マルクス・アントニウスが、敬慕する師であり独裁官でもあったガイウス・ユリウス・カエサルを称えるため、元老院に改名を提案したことがきっかけでした。

ミネルウァに捧げられた収穫の月

この月は知恵の女神ミネルウァに捧げられていました。ミネルウァはギリシャ神話のアテナに対応する神格で、ユピテル、ユノとともにローマ神話最高位の三神、いわゆるカピトリウムの三柱神の一つに数えられます。暦の上では、この月は日焼けした若者の姿で描かれ、その髪は麦の穂を思わせるものでした。農民たちがスペルト小麦(ファロ)、オーツ麦、ライ麦の畑で収穫を始める時期だったからです。

不吉な月始め――カレンダエ

クウィンティリスのカレンダエ(毎月1日)は不吉な日とされ、4日までは何事もうまく運ばないと信じられていました。たとえば西暦31年7月1日には、カイウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクスという若者が執政官に就任しています。彼こそ、幼少期をゲルマニアで過ごした頃、父の軍団兵たちから「カリグラ(小さな軍靴)」と呼ばれ、そのあだ名で歴史に名を刻んだ皇帝です。

アポロの大祭と貴婦人たちの儀式

5日には、ユピテルに捧げられた「プブリフゥガエ」と呼ばれる、詳細の伝わっていない祭りが行われました。同じく5日から12日にかけては、アポロに捧げられた「ルディ・アポッリナレス(アポロ祭)」が開催されます。この祭典は第二次ポエニ戦争の最中、市民を慰撫し、共和国を脅かす災厄を払う目的で制定されたものでした。いわばローマ軍への感謝祭のような性格を帯びており、宴や競技が催され、貴婦人たちは神殿へと行列を組んで向かい、そこで興味深い儀式を行いました。それは、髪をほどいたまま箒で祭壇を掃くというものです。

ロムルスを偲ぶ日とイチジクの祭り

7日は、紀元前715年に没したと伝わるローマの建国者ロムルスの死を偲ぶ日でした。この日は奔放な雰囲気に包まれる一方、興味深い祭り「ノナエ・カプロティナエ(イチジクの祭り)」とも重なります。ユノに捧げられたこの儀式では、女性奴隷たちが主役を務めました。

「海の星」シリウスの祭り

イードゥス(月中の15日)の翌日には、「ステラ・マリス(海の星)」の祭りが執り行われました。帝政期にはこの祭りは女神イシスと結びつけられます。東地中海を航行する船乗りたちの道標であり、夜空で最も輝く星シリウスが崇められたのです。

カエサルの誕生と神格化

伝承によれば、ガイウス・ユリウス・カエサルはこの月の11日に生まれました。だからこそマルクス・アントニウスは、ほかのどの月でもなく、この月の名を独裁官に捧げたのです。しかし、カエサルへの讃辞はこれで終わりではありません。紀元前29年7月18日(後年、意図的に選ばれた興味深い日付です)、養子アウグストゥスが、帝国の安寧を約束した「神聖なるカエサル」の祭祀に捧げられた神殿を奉献しました。以後毎年、20日から月末にかけて、帝国全土で彼を称える競技祭が催されるようになります。

ミネルウァの大祭「パナテナイア」

20日はミネルウァにとって特別な日でした。この日には「パナテナイア」が祝われます。アテナを称えるアテナイの大祭を直接受け継いだこの行事は、大規模な市民参加型の祝祭でした。市に暮らす高貴な婦人たちは、9か月の歳月をかけて織り上げた精巧な衣「パラディウム」を女神に捧げました。この豪華な衣は荘厳な儀式の中でミネルウァの神像に着せられ、その後、市民が触れたり、その一部を持ち帰ったりできるよう、街路を練り歩く行列が行われました。オリーブの枝を手にした神官たち、踊り子たち、そして音楽と色彩が女神に付き添いました。都市の守護神ミネルウァの加護は、すべての市民に等しく降り注いだのです。4年ごとには「大パナテナイア」と呼ばれる、より盛大な祭りが開催されました。バレンシアの聖母バシリカから「捨てられた者たちの聖母(マレ・デ・デウ・デルス・デサンパラッツ)」の行列が出るのを目にした、あるいは参加したことのある方なら、この祭りの熱気を言葉で説明する必要はないでしょう。

聖なる森の祭り「ルカリア」

19日から21日にかけては「ルカリア」が祝われました。農業女神デア・ディアにゆかりのある、聖なる森の祭りです。

旱魃を払う「ネプトゥナリア」

23日には、この月最後の大祭「ネプトゥナリア」が行われました。水の神にして漁師と船乗りの守護神ネプトゥヌスに捧げられたこの祭りは、旱魃を払うことを目的としていました。祭りは海辺、できれば岬で開かれ、神に捧げる雄牛が屠られ、その肉は儀礼の宴で振る舞われました。参加者たちは植物でトゥニカを飾り立て、ふんだんに酒を酌み交わし、舟艇競争も繰り広げられました。


この記事は、『Bravery』の著者ガブリエル・カステリョ(Gabriel Castelló)氏による寄稿です。