ヨーロッパの歴史

オマール・ベン・ハフスン ― 後ウマイヤ朝に挑んだムラーディの反乱指導者

オマール・ベン・ハフスン(Omar ben Hafsun)は、キリスト教徒からイスラームへ改宗した者たちの子孫であるムラーディ出身の貴族であり、9世紀末から10世紀初頭にかけてコルドバの後ウマイヤ朝首長国に対しゲリラ戦を展開した指導者です。

オマール・ベン・ハフスン ― 後ウマイヤ朝に挑んだムラーディの反乱指導者

アンダルス社会の対立が生んだ反乱

キリスト教徒の祖父を持つものの、自らはムスリムとして生まれたベン・ハフスンは、9世紀末に蜂起して以来、917年に死去するまでの約30年にわたり、コルドバの歴代首長を大いに悩ませ続けました。

この抗争の背景には、当時のアンダルス社会が抱えていた深刻な緊張関係がありました。ユダヤ教徒は迫害され、コルドバのエウロギオが唱える原理主義的な思潮は、モサラベ(イスラーム支配下に暮らすキリスト教徒)に殉教を煽りました。さらにアラブ人たちは、ムラーディを「二流のムスリム」と見下す風潮の中で接していました。こうした社会的摩擦こそが、ムラーディの大半と一部のモサラベを、ベン・ハフスンのウマイヤ朝打倒の旗印の下へと結集させることになったのです。

ボバストロに築かれた独立勢力

ベン・ハフスンはボバストロに独自の勢力圏を建設しました。かつてはウェスカ県のバルバストロと同一視されることもありましたが、現在ではマラガ地方にあったとする見解が定着しています。この拠点から彼はついにコルドバ本体を脅かすまでに勢力を伸ばし、アルヘシラスからムルシアに至る広大な地域を支配下に置き、エシハ、アルキドナ、バエサ、ベダといった重要都市もその版図に収めました。

首長アル=ムンドゥルは各地の拠点を奪還し、ベン・ハフスンを難攻不落のボバストロ城塞へと封じ込めました。ところが包囲戦の最中、裏切りによってアル=ムンドゥルは陣中で斃れ、弟のアブドゥッラーが首長位を継承します。アブドゥッラーはアンダルス各地で頻発する問題への対応を余儀なくされ、包囲を解かざるを得ませんでした。

包囲から解放されたベン・ハフスンは失った拠点の回復を進め、一時はコルドバ包囲さえうかがわせるほどの勢いを取り戻しました。

致命的な改宗と衰退

事態の深刻さを痛感した首長アブドゥッラーは、総力を挙げた対策に乗り出します。上部辺境地方を支配するムラーディの名門バヌー・カシー家(「カシウスの子ら」の意)と同盟を結成し、ベン・ハフスンを再びボバストロに孤立させたのです。

899年、ベン・ハフスンは決定的とも言うべき過ちを犯します。「サミュエル」の名を受けてキリスト教に改宗したのです。これはレオン王アルフォンソ3世やモサラベの友好と支援を獲得する狙いでしたが、結果は正反対となり、彼を支えてきた多くのムラーディが離反していきました。

最期と反乱の終焉

ベン・ハフスンは917年、ボバストロでの戦いの最中にこの世を去ります。息子たちはその後も抵抗を続けましたが、928年、アブド・アッラフマーン3世がボバストロ城を陥落させ、およそ40年に及んだ大反乱はついに幕を閉じたのです。

出典:『スペイン歴史辞典』カルロス・フェレーラ/『カリフ、戦士、奴隷と宦官たち』フアン・エスラバ・ガラン
オマール・ベン・ハフスン ― 後ウマイヤ朝に挑んだムラーディの反乱指導者