ヨーロッパの歴史

数羽の鳥が決めた戦い――ハーラル「苛烈王」が難攻不落の城塞を落とした驚異の奇策

1029年、ノルウェー王オーラヴ2世(聖王オーラヴ)は亡命先から帰国し、デンマーク勢力に奪われた王座の回復を目指しました。しかし翌1030年、スティクレスタの戦いで致命傷を負い、この地に果てます。共に戦ったのは異母弟のハーラル・シグルズソン。彼は忠実な部下たちとともに戦場からの脱出に成功しました。

キエフ・ルーシからビザンツ帝国へ

亡命先となったのは、現在のウクライナ、ベラルーシ、ポーランド、バルト諸国、そしてロシア西部にあたるキエフ・ルーシの地です。ハーラルたちは「賢公」と呼ばれた大公ヤロスラフ1世のもとで傭兵として仕え、やがて大きな名声を得るに至ります。この評判が後の運命を左右することになります。彼らは東ローマ(ビザンツ)帝国の精鋭部隊ヴァラング親衛隊の一員として迎え入れられたのです。

シチリア遠征と「鳥」を使った奇策

帝国に仕えたハーラルは、シチリアでの戦役に従軍します。ここで彼らが直面したのが、攻略不可能と思われる一つの都市でした。分厚く高くそびえる城壁に加え、天然の井戸まで備え、食料も数か月の包囲に耐えられるだけ蓄えられていました。

ハーラルは数日間、隙や弱点、攻め込める抜け道を探し続けましたが、何ひとつ見つかりません。しかし観察を重ねるうちに、ある事実に気づきます。包囲している間も毎日、何百羽もの雀が森へ飛んでいき、雛のための餌を運んだ後、市内の巣へ戻っていくというのです。

そこでハーラルは兵士に命じ、都市から飛び立つ鳥だけをできる限り捕まえさせました。そして鳥の脚に、あらかじめ松脂(ピッチ)と硫黄を染み込ませた小さな木片を結び付け、火をつけます。恐怖に駆られた鳥たちは、一目散に自分の巣へ舞い戻りました。巣の多くが木や藁など燃えやすい素材で造られた家々の軒先にあったため、たちまち数百の小火が発生し、街全体を飲み込んでいったのです。

住民たちは火災から逃れ、慈悲を乞いました。ハーラルは都市を占領しつつも、彼らの命までは奪いませんでした。圧倒的な武力ではなく、鋭い観察眼と知恵によって要塞を崩した、戦史に残る見事な例といえるでしょう。

王冠への帰還とスタンフォード・ブリッジの最期

こうした武勲により、ハーラルは東ローマ宮廷で高い評価を受けるようになりました。しかし彼は、そろそろノルウェーへ戻り自らの王位を請求すべき時だと考えます。皇帝は出国を許そうとせず、ハーラルはヴァラング親衛隊の一部を率いて北欧の地へ脱出しました。そして1047年、ついにノルウェー王ハーラル3世として戴冠を果たします。

その後、「苛烈王(ハールダーラーダ)」の異名で恐れられた彼は、1066年にイングランド侵攻を試みますが、スタンフォード・ブリッジの戦いで矢に当たり、戦死を遂げました。「最後のヴァイキング王」と呼ばれる伝説的な奇才の物語は、ここに幕を下ろしたのです。


本記事は、書籍『ゴート人の王の名簿は覚えていない(I never learned the list of the Gothic kings)』からの抜粋をもとに構成しています。