移動の方向が逆だった時代
今日、ほぼ毎日のように――特に夏場には――アフリカからイベリア半島を目指す移民のニュースが流れてくる。波にも耐えられそうにない小舟に男女や子どもたちがひしめき合って乗り込み、あるいはセウタやメリリャの国境フェンスを越えようとし、その多くは悲劇的な結末を迎えている。
しかしかつては、流れが正反対だった時代があった。イベリア半島から逃れてきた人々を、アフリカ大陸が受け入れ、歓迎していたのである。
コルドバの虐殺からモリスコの追放へ
818年、いわゆる「アルラバルの虐殺(反乱)」(アラビア語のal-rabad=郊外に由来)が起きた。郊外に暮らすコルドバの住民たちは、エミール・アル=ハカム1世の増税に抗議して街頭に繰り出した。エミールの対応は迅速かつ凄惨だった。3日間にわたり軍隊が郊外を焼き払い、徹底的に破壊したのである。3,000人以上のコルドバ人が殺され――うち300人は磔にされた――残りの住民2万人以上はコルドバからの逃亡を余儀なくされた。彼らの多くは現在のモロッコ、フェズへ向かい、そこに「アンダルシア人の街」と呼ばれる街区を築いた。
もう一つの例が1492年のユダヤ人追放である。彼らはナバーラ王国、バルカン半島、オスマン帝国、そして北アフリカへと散っていった。そして本稿の主題は……モリスコ(Moriscos)の移住である。

モリスコの最終的な追放は1609年、フェリペ3世の治世にようやく実施されたが、それ以前の1502年の改宗令によって、半島に住むムスリムはキリスト教へ改宗するか(モリスコとなる)、去るかを迫られており、早くも小規模ながらアフリカへの移住が始まっていた。多くの人々は、その強制的で見せかけだけの改宗を疑念の目で見ていた(私生活では従来の習慣と信仰を守り続けていると信じられていた)。さらにモンフィー(monfíes)と呼ばれるムーア人の盗賊団が現れ、略奪と殺戮を働くようになった。
バルバリア海賊たちは、ムーア人を支援すれば最大の敵フェリペ2世を「その自宅で」痛打できることに気づいた。集団は膨れ上がり、地方当局は手の出せない状況となり、教会は冒涜され、彼らはグラナダの門前まで迫った……そして1568年、アルプハラス戦争が勃発した。
フェリペ2世は反乱鎮圧のため、ドン・フアン・デ・アウストリアを総司令とするテルシオを派遣した。1570年、反乱軍は敗北し、アルプハラスの住民は半島各地へ追放された。この時点から正式な追放まで、北アフリカへのムーア人の移住は絶えることがなかった。
移民を受け入れたスルタンと4,000人の遠征軍
こうした半島出身の元ムーア人移民たちを受け入れたのが、モロッコのスルタンムーレイ・アフマド・アル=マンスールである。領内の平定を終えた彼は、金のキャラバンが出発する南サハラに目を向けた。計画実現のため、ムーレイ・アフマドは約4,000人の軍を編成した。その中核を担ったのは、スペインから逃れたムーア人の子孫であるアンダルシア人傭兵と、改宗キリスト教徒(レネガード)たち。彼らは火器(アルケブス)で武装し、母語はスペイン語だった。遠征は1590年10月16日にマラケシュを出発。指揮を執ったのは、スルタンの腹心ユデル(Yuder)である。
ユデルとは何者だったのか?
バルバリア海賊がアンダルシア沿岸を襲撃した際、クエバス・デ・アルマンソラ(アルメリア県)出身の若者が捕らえられた。一部の史料によれば、その名はディエゴ・デ・ゲバラという。彼は北アフリカで奴隷として売られ、主人によって去勢された。過酷な運命を乗り越えた彼の気概とイスラム教への改宗が、彼をスルタンの側近へと押し上げ、ついには重大な任務を託されるまでに至ったのである。
この危険な冒険の第一の関門は砂漠横断だった。現在のアルジェリア、マリ、ニジェールの国境地帯に広がる、サハラでも屈指の荒涼地帯タネズルフトを越え、かつて黒人アフリカ最強と謳われたソンガイ帝国へ到達しなければならなかった。数ヶ月に及ぶ行軍の末、ユデル一行はニジェール川に達し、その流れを下って首都ガオの門前に姿を現した。
圧倒的な数的優位と、長く苦しい旅で疲弊した敵軍――ソンガイ側には楽勝の予感があった。だが現実は正反対だった。ソンガイ人が見たこともない火を噴く武器が、歴戦の勇者の列を瞬く間になぎ倒した。弾丸から逃れようと川を渡ろうとした多くの兵が水死した……わずか2時間で、ユデルはガオを陥落させた。次の目的地は、現在のマリにある伝説の都トンブクトゥ。レオ・アフリカヌスことハサン・イブン・ムハンマド・アル=ワッザーン・アル=ファーシーは、著書『アフリカ誌』(1526年)でこう記している。
トンブクトゥには驚くべきモスクと荘厳な宮殿がある。[...] ここに住む人々、とりわけ在留外国人は並外れた富を持ち、現国王は自らの娘二人をそうした商人に嫁がせるほどである。澄んだ水を満たした井戸が数多くあり、ニジェール川の氾濫時には水路を通って水が街へ運ばれる。穀物、乳、バターは豊富だが、塩だけは希少で、20日ほど離れたタガザ鉱山から運ばねばならない。[...] 医師、裁判官、その他の賢人たちが多数住み、王の庇護のもと裕福に暮らしている。[...] バルバリアからは書物や写本が届き、他のどんな商品よりも高値で売られる。トンブクトゥの通貨は無刻印の裸金貨、すなわち純金である。

トンブクトゥの攻略はさらに容易だった。「事実上無敵の兵士」の噂は、すでにソンガイに伝わっていたからだ。彼らはその兵士たちを「アルマ(Arma)」と呼んだ。これは、開戦時に北方の兵士たちが発する、彼らには理解できない「武装せよ(a las armas)!」という叫びとの連想によるものと考えられている。もっとも、この地はもはやレオ・アフリカヌスの描いた「アフリカの黄金郷」の面影は薄れていた。金の中継地であって、終着地ではなかったからである。
それでもユデルは当地に定住し、1591年、ユデル・パシャとしてこの領域の総督を称した。同じくアルマたちは支配階級ないし民族的集団となり、社会的地位の高いソンガイ女性との結婚によって支配を世代から世代へと固定していった。
スルタンとの間にはサハラ砂漠全体が横たわり、ユデルはかなり自由に統治することができた。だが、その自立宣言と独立の動きを警戒したムーレイ・アフマド・アル=マンスールは新総督を送り、1599年、ユデルにマラケシュへの帰還を命じた。ユデルは1605年、子を残さぬままこの世を去った――若くして去勢されていたことを想起されたい。

2世紀にわたり続いたスペイン語の王国
以来2世紀にわたり、この人種と文化の混淆から生まれた子孫たちは、直接的あるいは間接的に都市の統治を握り、常にその出自を誇りにしてきた。今日、イベリア半島出身のモリスコの直系の子孫であるアルマ(約1万人)に加え、ソンガイ語の500語以上が16世紀のスペイン語に由来すると推定されている。ガルシア、エステベ、レオンといった姓がこの地で今も名乗られているほどである。
この共通の歴史に敬意を表し、アンダルシア州政府は「カティ文庫」のために資金を提供した。これは1467年にアル=アンダルスから追放されたアリー・ベン・ジヤード・アル=クティがトンブクトゥに持ち込んだ写本群であり、トンブクトゥに設立された保存・研究センターで管理されてきた。しかし2012年のマリ紛争で、センターは事実上機能停止に陥った。イスマイル・ディアディエ・ハイダラ率いるカティ家は、この文化的遺産の大部分を救い出し、トンブクトゥ近郊の村、首都バマコ、そして2012年4月以降はアンダルシア歴史的遺産研究所(IAPH)本部へと分散保管することに成功した。
かつて黒人アフリカには、スペイン語を話し、スペイン人宦官によって統治された王国が実在したのである。

トンブクトゥのアンダルシア図書館