現在のスペイン1978年憲法第14条には、次のように謳われています。
スペイン人は法の前に平等であり、出生、人種、性別、宗教、意見、その他一切の個人的・社会的条件や事情による差別を受けない。
しかし、こうした理念が昔から当然のものだったわけではありません。実は、1812年3月19日にカディスで採択された「1812年スペイン憲法」(通称〈ラ・ペパ〉)が施行されていたわずか2年間、アフリカ系のスペイン人や失業者たちは、他のスペイン人と同じ権利を持ち得なかったのです。
誰が「スペイン人」とみなされたのか
同憲法では、「スペイン国民とは、両半球のスペイン人〔イベリア半島と周辺島嶼、および海外領土の住民〕の総体である」と定義されていました。さらに第5条では、スペイン人が次のように規定されています。
1. スペイン諸領域に生まれ、かつ居住するすべての自由民とその子孫。
2. コルテス(国会)から帰化証書を取得した外国人。
3. 証書を持たない場合でも、王国の任意の町に法律に従い10年間居住した者。
4. スペイン領内で自由の身を得た解放奴隷。
つまり、先住民、メスティーソ、「褐色カースト」(どの系統であれアフリカ人の血を引く者)、そして解放奴隷までが含まれており、明確に排除されていたのは奴隷のみでした。
両半球の代表格差という難問
1813年の通常コルテス議員を選ぶ選挙法制は、1812年憲法自体と、後の1812年5月23日付コルテス布告によって定められました。両法令では、半島と海外領土を47の選挙区(県)に分割し、人口7万人につき議員1名を選出することが決められています。第27条および第28条には次のようにあります。
コルテスとは、国民を代表するすべての議員の集会であり、市民によって選出され、その代表権は両半球において対等のものである。
これは海外領土(アメリカ大陸の領土とフィリピン)の代表権を本国(半島と周辺島嶼)と対等にしようとする試みでしたが、議席を純粋に人口比例で配分するのは極めて困難でした。当時の推定人口は、海外領土が約1,800万人であるのに対し、本国は約1,050万人にとどまっていたからです。
「スペイン人」と「市民」を分けた第22条
そこで第22条には、人口ひいては議員数を均衡させるための「調整措置」が組み込まれました。その方法こそが、「スペイン人」と「市民」――すなわち公民権と政治権利――を区別することでした。すべてのスペイン人は完全な公民権を有していましたが、すべての者が市民(完全な政治権利=投票権の保持者)だったわけではないのです。
いかなる系統であれ、アフリカ出身と知られ、そう認められているスペイン人〔褐色カースト〕に対しても、徳と功績によって市民となる門戸は開かれている。したがって、コルテスは祖国に顕著な功績を挙げた者、あるいは才能・勤勉・品行において抜きん出ている者に対して市民証を授与するものとする。ただし、自由な身分の父母との間の嫡出子であること、自由な女性と結婚してスペイン領内に居住していること、および自己の資本をもって何らかの職業・商業・有益な産業に従事していることを条件とする。
すなわち、こうした人々は投票権を自らの手で「勝ち取る」必要があったのです。
失業者からも奪われた市民権
さらに第25条は、市民権が停止される――ひいては投票権も失われる――ケースを列挙しており、その一つが次の規定です。
…職業、商売、あるいは確立された生計手段を持たない者。
こうした再調整と、憲法第IV章に盛り込まれたその他の規定によって、海外領土の人口は約1,300万人余りへと「圧縮」され、ここにようやく両半球の議員数は均衡を保つことになったのです。