
世界史の教科書には、ネロやテオドシウスの名前は必ずと言っていいほど登場します。ところが、私の知る限り、ウェスパシアヌスの名前が載っている世界史の教科書はほとんどありません。
おそらく、ウェスパシアヌスの時代には目立った出来事がなかったからでしょう。しかし、「目立たない」ということは、裏を返せばどういう意味なのでしょうか。
今回は、第9代皇帝ウェスパシアヌスの治世をじっくりと振り返ってみたいと思います。
エリート街道を歩みながら、ネロに嫌われた男
ウェスパシアヌスのキャリアは、いわば順風満帆なエリートコースそのものでした。ローマの名誉ある出世階梯「クルスス・ホノルム」に沿って、若くしてクァエストル(財務官)やプラエトル(法務官)に選出され、ゲルマニアやブリタンニアへ赴任し、紀元51年には執政官(コンスル)にまで昇りつめます。
その後、プロコンスル(属州総督)としてアフリカ属州の統治を担い、ローマに帰還した頃には皇帝ネロに気に入られたようで、ネロのギリシャ巡幸にも同行しました。
ところが、ネロの演奏中に居眠りをしてしまったため、一時はひどく冷遇されてしまいます。それでも、ユダヤで反乱が勃発すると総司令官として派遣されるほど、その軍事的な能力は十分に認められていたのです。彼はシリア総督ムキアヌスや息子ティトゥスとともに、ユダヤ戦役を戦い抜きました。
ネロの死と内乱——「三皇帝の時代」
ウェスパシアヌスがユダヤ戦役の最中にあった紀元68年、皇帝ネロは自殺しました。
ネロの死後、無力なガルバ、オト、ウィテリウスの3人が帝位を奪い合う、いわゆる「三皇帝の時代」が訪れます。そして、この混乱に終止符を打ったのがウェスパシアヌスでした。
もともと皇帝に推されていたのはシリア総督のムキアヌスの方でしたが、彼は自分にはその器がないとして、ウェスパシアヌスを皇帝候補として推薦します。こうして東方の軍団——ローマ軍シリア軍団、ユダヤ戦役でローマ側についたヨセフス・フラウィウスの影響下にあるユダヤ勢力、そして皇帝直轄のエジプト属州——がこぞってウェスパシアヌスを支持しました。さらに、ウィテリウスから屈辱的な扱いを受けて恨みを抱いていたドナウ軍団も、これに加わったのです。
ユダヤ戦役の収拾をつける必要があったため、ウェスパシアヌス自身は軍を率いてローマへ向かわず、代わりにシリア総督ムキアヌスと部下のプリムスをローマへ送りました。プリムスは見事な活躍でウィテリウス軍を撃破しています。
この間、ローマでは兄サビヌスがウィテリウス派の手にかかり、残された次男ドミティアヌスは辛うじて命からがら逃げ延びました。さらにウィテリウス派はローマ市内に火を放ち、カピトリウムのユピテル神殿も焼失。ローマは再び戦場と化してしまったのです。
ローマ市街が戦場になったのは、マリウスとスラの内乱以来およそ100年ぶりのことでした。歴史家タキトゥスによれば、軍団同士が殺し合っているのに、ローマ市民は平然と日常の生活を送り、むしろそれを「見物」として楽しんでいたといいます。誰が皇帝になろうと、市民にとってはもはやどうでもよかったのでしょう。
この戦いでウィテリウスは豚のように殺され、罪人のようにテヴェレ川へ投げ込まれました。その後ムキアヌスがローマに入城し、内乱はようやく終結します。
皇帝ウェスパシアヌスの治世
ウェスパシアヌス自身がローマに入ったのは、もう少し後のことでした。ユダヤ戦役がまだ終わっていなかったためです。ムキアヌスがローマを落ち着かせる間、ユダヤ戦役は息子ティトゥスに委ねられ、紀元70年、ついにウェスパシアヌスはローマ入りを果たします。
ローマに入るとすぐ、彼はアウグストゥス、ティベリウス、クラウディウスの路線を引き継ぐことを宣言しました。これはいわば「皇帝法」の継承宣言です。ここで興味深いのは、カリグラとネロの名前が欠けている点です。ティベリウスとクラウディウスも、当時はそれなりに評価されていたことがうかがえます。
この「皇帝法」を刻んだ碑文は、現在カピトリーノ美術館に所蔵されているとされ、ウェスパシアヌスはそこで伝統的なプリンケプス(元首)の路線を踏襲し、元老院の制度を大きく改めることはないと宣言しています。
すでに60歳を過ぎていたウェスパシアヌスは、二人の息子に「カエサル」の名を与えて後継者に指名しました。皇帝を「アウグストゥス」、副帝を「カエサル」と呼ぶ伝統は、ここで生まれたといわれています。
ネロの時代以来の混乱で疲弊したローマを再建するため、ウェスパシアヌスは思い切った増税を決断します。そのために国勢調査(センサス)を自ら実施して市民の人数と財産を把握し、軍団を再編成し、インフラ整備を進めました。
そして、ローマといえば誰もが思い浮かべる「コロッセオ」。正式名称は「フラウィウス円形闘技場」で、これを建設したのがウェスパシアヌスです。名称は彼の家名「フラウィウス」に由来しています。

在位8年と長期政権とはいえませんでしたが、特別な事件もなく平穏に統治し、最期には「ああ、情けない。私はきっと神になるのだろうな」と言い残して亡くなったといいます。
紀元9年生まれのウェスパシアヌスは紀元79年に没しました。69歳というのは、ローマ皇帝の歴史の中でも上位に入る長寿です。
私から見たウェスパシアヌスの評価
ウェスパシアヌスの評判は、必ずしも高いとはいえません。ディオクレティアヌス帝のように断固たる意志で改革を行ったわけでもなく、コンスタンティヌス帝のように連戦連勝を誇ったわけでもなく、カエサルのように後世の基盤を築いたわけでも、アウグストゥスのように千年続く体制を打ち立てたわけでもないからです。しかも、増税は常に人々に嫌われるものです。
しかし、彼は増税で得た財源を私欲や贅沢のために使ったわけではありません。コロッセオの建設も公共事業として行われたものであり、徹底した緊縮財政が後の「五賢帝時代」を支える財政基盤を提供したのは間違いありません。
確かに、派手さはないかもしれません。しかし、本当に守備の上手い選手ほど華麗なプレーが少ないように、真に優れた政治を行う君主にも、華々しい見せ場が少ないのかもしれません。
何よりも、ネロの死後の混乱と危機——三皇帝の内乱——を乗り越え、ローマに光を取り戻した功績は、高く評価されるべきです。ウェスパシアヌスはローマを再建しただけでなく、配下のケリアリスを北方に派遣して秩序を回復させ、ゲルマン系の勢力が築いたいわゆる「ガリア帝国」の解体にも成功しています。
彼の功
彼の功績は歴代の英雄たちに比べれば確かに見劣りするでしょうし、個人の才能もはるかに及ばないかもしれません。それでも、世界史はウェスパシアヌスの業績をもっと評価してもよいのではないでしょうか。
彼がいなければ、エドワード・ギボンが「人類史上最も幸福な時代」と呼んだ五賢帝時代は存在せず、ローマ帝国そのものがこの時点で滅亡していた可能性すらあります。危機を乗り越え、平和な時代への架け橋となったその功績は、まさに「名君」と呼ぶにふさわしいものだと思うのです。