
ラテン語読みなら「ウィテッリウス」となるようですが、当ブログでは独自の表記方針に従い、ここでは「ヴィテリウス」と表記します。
皇帝ネロの死後、ローマは「四皇帝の年」と呼ばれる激動期に突入します。わずか一年の間に三人の皇帝が相次いで倒れ、その最後の一人となったのがヴィテリウスでした。
帝国最強のゲルマニア軍団を率いた総督
ローマ帝国にとって、建国から滅亡まで一貫して潜在的な脅威であり続けたのがペルシアとゲルマンです。ペルシアはパルティア朝やサーサーン朝といった文明国家だったため、外交や戦略である程度対応できました。ところがゲルマン人は幾つもの部族に分かれて統一がなく、そもそも交渉が成立しません。度重なる襲来に対処するため、帝国最強の軍団を国境に常駐させる必要があったのです。
その最強軍団を指揮していたのがヴィテリウスです。彼の正式な名前は「アウルス・ウィテッリウス・ゲルマニクス」。
ローマでは、あだ名が本名同様に定着することが少なくありません。たとえば「カエサル」――後世、皇帝の称号となったこの名は、一説にはポエニ戦争で象のように勇戦した人物に由来し、「象」を意味するカルタゴ語が家名になったと言われています。
ヴィテリウスもまた、「ゲルマニアを制した者」を意味する「ゲルマニクス」の称号を帯びています。しかし帝政初期の名将ゲルマニクスとは違い、彼自身の軍事的才能はほとんど皆無でした。
ガルバの時代にヴィテリウスがゲルマニアへ派遣されたのには理由があります。ガルバはゲルマニア軍団が敵に回ることを恐れており、「無能な司令官なら、万一の際にも安心だ」と考えたのだと言われています。
真偽のほどは定かではありませんが、支持基盤の脆弱だったガルバの人事として、決して不自然ではない判断でした。
ところが結果は裏目に出ます。ゲルマニア軍団はガルバへの忠誠を拒み、ヴィテリウスを担いでローマへ進軍したのです。
ベドリアクムの戦い
一方ローマでは、ガルバが人望のあるピソを後継者に指名したことが、オトーの怒りを買いました。オトーはガルバとピソを暗殺して自ら皇帝の座に就き、ヴィテリウスへの備えとしてドナウ軍団を召集します。
両軍は北イタリアのベドリアクムの地で激突しました。勝利したのは、ゲルマニア軍団を率いるヴィテリウス側です。
ただし戦闘の中身は惨憺たるもので、無能な指揮官同士の争いが、互いに大きな損害を出したまま終わったようです。
このときヴィテリウスは、ドナウ軍団への侮辱的な仕打ちが後に仇になるとは、夢にも思わなかったのでしょう。
共和政ローマの英雄カエサルは、敵対したポンペイウスの兵士たちを許し、決して辱めることはありませんでした。彼らは敵味方に分かれていても、同じローマ市民だったからです。
しかしヴィテリウスは英雄でも何でもありません。偶然その地位に居合わせただけの人間でした。
その後、オトーは自ら命を絶ち、ヴィテリウスが皇帝となります。
皇帝ヴィテリウスの実態
皇帝となったヴィテリウスは、ガルバの予想どおり、徹底した無能ぶりを発揮しました。
即位後の彼は、ただ遊び暮らしたのです。剣闘士の試合を見物し、豪華な料理を腹いっぱい食べ、昼寝をする――執務らしい執務は何ひとつ行いませんでした。史家スエトニウスによれば、一日に数度の宴を開き、吐いてはまた食べるという有様だったと伝えられています。
一介の市民ならそれでも許されたかもしれませんが、ローマ皇帝としては到底許容できる話ではありません。
やがて、シリアでユダヤ戦争の鎮圧に当たっていたウェスパシアヌスが帝位を宣言すると、その部将プリムスがローマへ進軍します。ヴィテリウスはこれに敗れて捕らえられ、殺害された上、遺体はティベレ川へ投げ込まれました。
ヴィテリウスという人物
正直に言えば、彼は評価に値する人物ではありません。
ヴィテリウスはごますりの名人で、巧みに立ち回って地位へと食い込んでいくタイプの人間でした。個人的には、私が最も苦手とする類型です。
こうした人間に統治の能力があるはずがなく、実際、ヴィテリウスはその典型例となりました。
そんな人物がローマ皇帝の座に就いてしまったという一事をもってしても、当時のローマがどれほど深い混乱の中にあったかが、如実に伝わってくるというものです。