日本において最も知名度の高いローマ皇帝は誰かと問われれば、多くの人がこの男の名を挙げるだろう。第5代皇帝ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス。歴史上「暴君」の代名詞とされ、母殺し、キリスト教徒迫害、ローマ大火、そして芸術への狂気的な執着で知られる彼の、波乱に満ちた生涯を辿る。
恵まれた環境で育ったプリンセス
「シンデレラ・コンプレックス」という言葉があるが、ネロはある意味で「最強のプリンス」として生まれてきた。ローマに王はないが、彼は初代皇帝アウグストゥスの血を引く名門ドミティウス家の出身であり、母アグリッピナ・ユングアの野心と画策により、第4代皇帝クラウディウスの養子となり、皇位継承が約束されていた。
アグリッピナは息子に最高の教育を施した。軍事指揮官として名高いブルッスス・アフラニウス・ブルルスと、ローマ史上屈指のストア派哲学者ルキウス・アンナエウス・セネカがその師である。クラウディウスがアグリッピナによって毒殺されたとされるのも、ネロを皇帝に就けるためだった。西暦54年、クラウディウスの死とネロの即位は同時に発表され、側近には近衛隊長官となったブルッススが控えていた。元老院も市民も、50歳で即位したクラウディウスに代わる若き16歳の皇帝を歓迎した。しかし、この少年が後のカリグラを凌ぐ暴君となることを、この時誰が予見できただろうか。
ネロの「善政」とその正体
出生名はルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス。養子縁組と即位によりネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクスと改名した。ローマ皇帝は自らを「インペラトル(最高司令官)」や「プリンケプス(第一市民)」と呼称し、カエサルとアウグストゥスを名に冠するのが慣例だった。このインペラトルは後の「エンペラー」、カエサルはドイツの「カイザー」、ロシアの「ツァーリ」の語源となっている。
即位当初、ネロの政治は比較的安定していた。クラウディウスが財政再建を果たしていたため豊富な資金があり、師であるセネカとブルッススが補佐していたからだ。皇帝財政と元老院財政の統一、貨幣鋳造の統一、税制改革などが行われたが、これらの手腕はネロ自身というより、セネカ、シリア総督コルブロ、そしてアグリッピナの力によるところが大きかった。
異母弟殺害と母殺し――暴君への転落
ネロが「史上最悪の皇帝」と罵られる最大の理由は、実母アグリッピナの殺害にある。世界史には数多の暴君が存在するが、実母を殺害したのはネロくらいである。アグリッピナは政治に口出しし、息子を支配下に置こうとした。ネロとの近親相姦の噂さえあり、これは後世「アグリッピナ・コンプレックス」という心理学用語の由来ともなった。
思春期真っ只中のネロにとって、母の過干渉は耐えがたいものだった。アグリッピナは従順でないネロを見限り、クラウディウスの実子ブリタンニクスを次の皇帝に担ぎ出そうと画策する。しかしブリタンニクスは謎の死を遂げ、古代の歴史家たちはネロの毒殺と断じた。ネロ視点では、母によってクラウディウスが毒殺された以上、ブリタンニクスを生かしておけば自分が殺されるという恐怖があったのかもしれない。
決定的な決別は、ネロが正妻オクタウィア(クラウディウスの娘)を離縁し、愛人ポッパエア・サビナと再婚しようとした時だ。アグリッピナが激しく反対したため、ネロはついに母を殺害させた。父殺しの物語は古今東西にあれど、母殺しは極めて稀である。この頃からネロの暴走は加速していく。
セネカの去就と止まらぬ暴走
母を失い「自由」を手にしたネロは、まず「ローマ・オリンピック」を開催し、ギリシャの祭典をローマに移植した。ギムナシウム(ギムナディウム)を建設して市民の運動を奨励したが、最も運動しなかったのはネロ自身だったと皮肉られる。
対外的にはブリタンニアの反乱鎮圧、アルメニア・パルティア問題でコルブロの活躍により友好関係を築くなど成果もあった。しかし転機はセネカの離脱だ。近衛隊長官ブルッススの死(ネロによる暗殺説が濃厚)を機に、セネカは「次は自分か」と恐れて引退を願い出た。高利貸し疑惑で弾劾された説もあるが真相は闇の中だ。ネロとセネカの別れは穏やかだったが、ブレーキを失ったネロの暴走は止まらなくなる。セネカ隠棲とポッパエア再婚、そしてローマ大火はほぼ同時期に起きた。
西暦64年・ローマ大火とキリスト教徒迫害
ネロを暴君の代名詞たらしめたのがこの大火だ。出火原因は自然発火説が有力だが、ネロは焼け跡に黄金宮殿(ドムス・アウレア)の建設を開始した。市民は「宮殿を建てるためにネロが火を放った」と噂し、世論は悪化。パニックになったネロは責任転嫁の標的として、まだマイノリティだったキリスト教徒を選んだ。
後の世界はキリスト教文明が支配することになる。ヨーロッパの植民地支配、キリスト教道徳の世界標準化の中で、ネロは「最悪の暴君」として歴史に刻まれた。無実のキリスト教徒たちは円形闘技場で獣に食われ、磔にされ、生きたまま松明にされた。初代ローマ教皇ペトロもこの殉教者の一人とされる。あまりの残虐さに多くのローマ市民が恐れ慄いたが、ネロは戦車に乗り、笑顔で処刑を見物していたという。彼自身、キリスト教徒が無実だと知っていたはずだ。
ギリシャ文化への傾倒と「芸術家」ネロ
ネロは「歌う皇帝」としても知られるが、その歌唱力は決して高くなかった。ナポリの劇場で歌い、スペクタクルとしては受けたが、実力は伴わなかった。スキピオ・アフリカヌス以来、ローマのエリートはギリシャ文化に傾倒し、カトー・ケンソリウスのような伝統派と対立してきたが、ネロのそれは異常だった。
第2回ローマ・オリンピックの音楽コンクールに自ら出場し、「皇帝と思わないでくれ」と言ったという。実力があれば名台詞だが、現実には周囲が忖度して勝利を譲るのみだった。彼は自分を真の芸術家と信じ込んでいたのだ。
ピソの陰謀とベネウェントの陰謀――粛清の連鎖
元老院による皇帝暗殺はカエサル以来のローマの悪しき慣習だった。ネロの時代にもガイウス・カルプルニウス・ピソを首謀とする大規模な陰謀(ピソの陰謀)が発覚する。参加者にはセネカの甥ルキウス、近衛隊長官ファイウス、多くの元老院議員、そしてセネカ自身の名も挙がった。セネカの関与は議論が分かれるが、陰謀を知っていたのは事実だ。ネロはセネカに自死を命じ、計19人を処刑、13人を流罪とした。
この後、ネロは猜疑心に駆られ、優秀な人材を次々と処刑する。ピソの陰謀に続き、青年将校によるベネウェントの陰謀が発覚すると、コルブロの娘婿ウィニキアヌスを首謀者と断定し、証拠もなくコルブロを含む軍団司令官3名を自死に追い込んだ。有能な指導層を自ら失うことで、政権の基盤は脆くなっていった。
ネロの最期
直接のきっかけは、ガリア総督ガイウス・ユリウス・ウィンデクスの反乱だった。反乱はガルバとオトという二人の将軍によって鎮圧されたが、彼らはそのままローマへ進軍を開始する。同じ頃、市民への小麦輸送船が闘技場の砂を運んでいたとの噂が広がり、市民の怒りは頂点に達した。元老院はネロを「国家の敵」と宣言し、近衛隊も彼を見捨てた。誰も守る者がいなくなったネロは逃亡し、西暦68年、31歳で自害した。最期の言葉は「ああ、なんと偉大な芸術家が失われることか」だった。
皇帝になどならなければ、彼は生涯を芸術に捧げて幸せに暮らせたのかもしれない。
ネロの個人的評価――悲劇の申し子
共和政ローマにはスキピオ、アッピウス・クラウディウス、カエサルら傑出した人材が溢れていた。しかし帝政となり世襲制が定着すると、まともな統治能力を持たぬ人物が皇帝となり、暗愚な暴君が目立つようになる。中国宋朝の徽宗皇帝(フイゾン)がその好例だ。芸術の才能に恵まれながら国を滅ぼし、異民族に捕虜となり「史上最低の皇帝」の烙印を押された。ネロもまた、芸術の才能があったかさえ怪しいが、最高権力者でありながらその生涯はただ哀れだった。
母を殺し、弟を殺し、師を死なせ、無実のキリスト教徒を虐殺し、最後は孤独に死んだ。それでも彼を完全に憎み切れない不思議な魅力があったのか、ネロの墓前には長く花束が絶えなかったという。アルメニア王ティリダテス1世はネロの支援で再建された都市を「ネロニア」と命名し、宿敵パルティア王ヴォロガセス1世でさえ、ネロ死後も元老院に対し「ネロ感謝祭」を毎年行うよう要請したと伝わる。
どうしようもない男だが、歌を愛し、どこか憎めない男。それがネロという人間の、歴史に残した真の姿なのかもしれない。