結論から述べると、クレメンス・フォン・メッテルニヒ(フュルスト・フォン・メッテルニヒ侯爵)は、イタリア統一(リソルジメント)において積極的な役割を果たした人物ではありません。むしろ、彼こそがイタリア統一を最も強く阻んだ「障害者」の一人として、歴史にその名を残しています。
メッテルニヒとはどのような人物だったのか
メッテルニヒは、19世紀前半のヨーロッパ外交界において最も影響力を持った政治家の一人です。1809年から1848年にかけて約40年間、オーストリア帝国の外務大臣(後に宰相)を務め、ナポレオン戦争後の国際秩序である「ウィーン体制」の設計者として知られています。
徹底した保守主義者の立場
彼は典型的な保守政治家であり、自由主義とナショナリズム(民族主義)に対して終始断固とした態度を取り続けました。革命や民族独立の動きを「秩序を脅かす危険思想」とみなし、各国の専制君主と連携してこれらを抑え込もうとしたのです。
なぜメッテルニヒはイタリア統一に反対したのか
当時のオーストリア帝国は、北イタリアのロンバルディア地方とヴェネツィア地方を直轄領として支配していました。さらに、トスカーナ大公国やパルマ公国などの中部イタリア諸邦にも、ハプスブルク家出身の君主を据えて強い影響力を及ぼしていました。
このため、イタリア半島を一つの国民国家として統合しようとする運動は、オーストリアの支配体制そのものへの重大な脅威となりました。メッテルニヒは検閲制度や秘密警察を活用してカルボナーリなどの愛国派を弾圧し、統一運動の芽を徹底的に摘み取ろうとしたのです。
メッテルニヒの死後、加速したイタリア統一
メッテルニヒは1848年の二月革命によって失脚し、1859年に亡くなりました。しかし皮肉なことに、まさにその1859年、サルデーニャ王国とフランス第二帝政が同盟を組み、オーストリアとの戦争(第二次イタリア独立戦争)に踏み切ります。
以降、カヴール、ガリバルディらの活躍により統一運動は大きく前進し、1861年にはイタリア王国が成立、1870年のローマ併合をもってイタリア統一はほぼ完成しました。つまり、メッテルニヒという巨大な障害が取り除かれたことで初めて、リソルジメントは現実のものとなったと言えるでしょう。
まとめ
メッテルニヒはイタリア統一の推進者ではなく、その最大の反対者でした。彼の保守的な外交政策は半世紀近くにわたり統一を阻止し続けましたが、結果として彼の存在こそが、統一運動家たちにとって乗り越えるべき象徴となったのです。