アルフレッド大王が基礎を築き、アゼルスタンがイングランド王国を樹立し、エドガー王が全土を統一しました。ところがその後継者たちは不運に見舞われます。王位をめぐる混乱の中でエドワード王子が暗殺されると、弟のエゼルレッド2世が王位を継ぐことになりました。
しかし彼には、後に付けられた「無策王(Unræd/良き助言を得られぬ者)」というあだ名がよく似合いました。賢人会議(ウィタン)の意見を軽視し、判断力に欠けた治世を重ねるうちに有力貴族との対立が深まり、各地で諸侯が台頭する事態となっていきます。
そんな隙を突いて、デーン人(デンマーク勢)が再びイングランドへ侵攻します。エゼルレッド2世はこれに対抗するため、フランス・ノルマンディー公リシャールの妹エマと結婚し、同盟を結成しました。
かくしてイングランドの地は、ゲルマン系のイングランド王、フランスのノルマンディー公、そしてデーン人の三つ巴の争乱に巻き込まれていくのです。
三つ巴の戦い
ノルマンディー公と同盟を結んだエゼルレッド2世は、1002年、イングランド国内のデーン人をことごとく殺害するよう命じます(聖ブリセウスの日の虐殺)。オックスフォードに逃げ込んだデーン人たちは聖堂に身を隠しましたが、群衆はそれをも容赦せず、聖堂ごと焼き討ちにしたといいます。
この知らせを聞いたデンマーク王スヴェン(一叉髭王)は大軍を率いてイングランドに攻め込み、報復としてオックスフォードを灰燼に帰させました。エゼルレッド2世は莫大な平和金(デーンゲルド)を支払うことで一時的にデーン人を領外へ追い払うことに成功しますが、その無能ぶりは国人たちの恨みを買い、ついに王妃エマの実家ノルマンディーへ亡命し、イングランドを捨ててしまいました。そして貴族たちは、「敵」のはずだったデンマーク王スヴェンをイングランド王として迎え入れたのです。
翌年スヴェンは急死します。長男ハーラル2世がデンマーク王位を継ぎ、次男クヌートがイングランド王位を継承することになりました。
ここでようやく、本稿の主役クヌートが登場するわけです。
しかし、このまま黙っている男が一人いました。そう、無能王の代名詞ともいうべきエゼルレッド2世です。ノルマンディー公の支援を受けた彼は、大軍を率いてイングランドに上陸し、王位奪還を図ります。
これに対してデンマークもまた大軍を送り込み、クヌート自身が指揮を執ってロンドンへ進軍しました。
そしておそらくはこの報せに衝撃を受けたのでしょうか、エゼルレッド2世は最悪のタイミングで世を去ります。イングランド史上の無能君主といえばジョン王とエゼルレッド2世ですが、悪名高い君主ほど、死ぬタイミングだけは絶妙なものです。
エゼルレッド2世の後を継いだのは息子のエドマンド2世(通称「鉄壁王アイアンサイド」)でしたが、イングランドの諸侯はむしろデーン人のクヌートを支持しました。
両者はエセックスでの決戦(アッサンドゥンの戦い)で激突し、クヌートが勝利。講和成立の直後にエドマンド2世が死去すると、賢人会議(ウィタン)の協議により、クヌートは正式なイングランド王として認められました。
このときクヌートは「先代エドガー王の正当な後継者」であることを宣言し、先王エゼルレッド2世の未亡人――すなわちノルマンディー公の娘エマ――との結婚を発表します。こうして歴史に名を刻む「デーン王朝」が成立したのです。
イングランドの歴史は不思議なもので、王朝の系譜を辿ると、外国人が王位に就いた例が実に多く見られます。名誉革命の結果、王座に就いたのはオランダのオラニエ=ナッサウ家のウィリアム3世ですし、現在の英国王室も、元来ドイツのハノーファー地方を治めていたハノーヴァー家の血統です。クヌートは、その「先駆け」と呼んでもよい存在かもしれません。
北海帝国

イギリスを含むヨーロッパには「同君連合(パーソナル・ユニオン)」という概念があります。これは日本には見られない考え方です。たとえばオーストリアの君主が神聖ローマ皇帝やハンガリー王を兼ねるといった具合で、これを極東に当てはめるなら、日本の天皇陛下がフィリピン王やサモア王を兼ねるようなもの。日本の感覚では到底想像しがたいことでしょう。
ところがヨーロッパでは、複数の王位や帝位を一身に兼ねることが珍しくありませんでした。クヌートの兄にあたるデンマーク王ハーラル2世が死去すると、クヌートはデンマーク王位も継承します。すなわち彼は、イングランド王でありながらデンマーク王をも兼ねる存在になったのです。
広大な領土を統治するため、クヌートはイングランドをウェセックス、マーシア、ノーサンブリア、イーストアングリアの四つの地域に分割し、それぞれを伯(アール/ヤール)と呼ばれる貴族に任じて統治させました。
この形式を採った背景には、デンマーク本国がスウェーデンやノルウェーの脅威にさらされていたことがあるのかもしれません。クヌートは先手を打ってスウェーデン・ノルウェーへの侵攻を開始し、ノルウェーを見事に占領すると、1028年には自らノルウェー王位にも就きました。
こうしてノルウェー、デンマーク、イングランドの三王国がクヌートの手のもとで結ばれ、北海交易を通じて流通が活発化し、イングランドの国力は大きく向上していきます。
さらにクヌートは外交にも力を注ぎました。ローマへ赴いてローマ教皇と謁見し、神聖ローマ皇帝コンラート2世の戴冠式にも列席しています。かつてヨーロッパの片隅にすぎなかったイングランドは、この時代に一大強国へと押し上げられたのです。
クヌート大王の評価
しかし栄華も長くは続きません。クヌートの死からわずか七年後、デーン王朝は滅亡します。
要因の一つは、伯(アール)と呼ばれる貴族たちの権力が強大になりすぎたことでした。とりわけウェセックス伯ゴドウィンの台頭は著しく、クヌートの死後、彼は王位継承に介入しては都合の悪い人物を葬り去るなど、専横を極めます。やがて王座に就いたのはエドワード懺悔王。イングランドの王位は、こうしてウェセックス王家の血筋へと戻ることになるのです。
その後の歴史については機会を改めて述べるとして、少なくともクヌートという人物が非常に有能で、広大な国土を見事にまとめ上げたことは間違いありません。
そもそも彼はデンマーク人ですから、スカンディナビアのデンマークやノルウェーの方が、イングランドの地より重要だったのかもしれません。当時のブリテン島は辺境の地にすぎず、北海帝国という広大な版図の中では、さほど重視されていなかったのでしょう。
もしクヌートがイングランドの地を重んじ、しっかりとした基盤を築いていたなら、イギリスの歴史は大きく変わっていたはずです。
「外国生まれの王室は支配しやすい」――これが貴族たちの本音でした。
クヌート以降、イギリスの貴族たちはこの発想で国政を動かすようになります。
もともとブリテン島には貴族的な気風が色濃くありましたが、クヌートの時代を境にその性格はますます強まり、貴族が政治を動かす仕組みが作り上げられていきます。その証拠に、現代のイギリスにも貴族院が存在しているのです。
伯(アール/Earl)と呼ばれる貴族階級もこの頃から権力を拡大し始め、その称号は今日まで「伯爵」として残っています。その基盤が築かれたのが、まさにこの時代だったといえるでしょう。
これが善かったのか悪かったのか、判断は難しいところです。
人は本来、平等ではありません。イギリスのこの哲学には眉をひそめたくなる一方で、どこか爽快な響きもあります。ただし、この思想がアメリカに受け継がれ、黒人奴隷制という悲劇を伝統として定着させてしまったことを考えれば、人類史上の罪業であると言わざるを得ないかもしれません。
とはいえ、有名なダービー伯爵やサンドイッチ伯爵のように、貴族制度が多彩な文化を育んだことも確かな事実です。
歴史とは、そう簡単に割り切れるものではないのです。