揚陸艦「レスボス」は1942年、米海軍の戦車揚陸艦(LST-1級)「ブーン郡(USS Boone County)」として進水した。満載排水量約4,000トン、全長100メートル、最高速力はわずか12ノット。40mmおよび20mm対空砲を搭載していた。
文:パンテリ・カリカ(Panteli Karika)
出典:SLpress
LST型揚陸艦として生まれた「レスボス」
1960年、この艦はギリシャに譲渡され、「レスボス(L-172)」と命名されました。1974年当時の艦長は、パイロット出身のエレフテリオス・ハンドリノス(Eleftherios Chandrinos)。1974年7月13日、彼はケフリア(Kechria)の小さな港を出航し、キプロスへと向かいました。
キプロスに到着した「レスボス」は、島で任務に就くELDYK(ギリシャ軍キプロス派遣部隊)の要員に対する補充兵を揚陸すると、7月19日午後、今度はELDYKでの勤務を終えて帰国する450名を乗せてキプロスを出港しました。
「自発的な参戦」
7月20日の朝、リマソール沖の南側海域を航行中だったギリシャ船のもとに、トルコ軍の上陸作戦開始を伝える信号が届きます。艦長ハンドリノスは、乗船している将兵をまずリマソールへ、続いてパフォスへ上陸させるよう命じられました。
「レスボス」は直ちにパフォスへ向かい、将兵を揚陸。しかしハンドリノスはそれだけでは飽き足らず、海域にとどまり、艦の40mmボフォース対空砲でトルコ系キプロス人の陣地への掃射を開始したのです。
およそ1,000発に及ぶ砲撃により、2個大隊規模のトルコ系キプロス人部隊は白旗を掲げることを余儀なくされました。「レスボス」の火力支援を受けたギリシャ系勢力は瞬く間に優位に立ち、トルコ系キプロス人は数十人単位で降伏していきました。その後、ハンドリノスは北西ではなく南東方面――エジプトへ向けて南下します。論理的に考えればトルコ軍が捜索するのは北西方向だからです。これにより敵の注意を巧みにそらしました。
「レスボス」が離れていくと、トルコ側はパニック状態に陥ります。「輸送船9隻と護衛軍艦5隻からなるギリシャ船団が、増援を積んでキプロスへ向かっている」という情報が飛び交いました。ただちに、上陸部隊を支援していた駆逐艦3隻――「コジャテペ」「アダテペ」「フェヴズィ・チャクマク」――が、ギリシャ船舶の捜索に派出されたのです。
トルコ艦2>トルコ艦隊を襲った「味方撃ち」の悲劇
混乱は深刻で、海軍とともにトルコ空軍も投入されました。トルコのF-104GおよびF-100戦闘機が発見したのは、3隻のアメリカ製ギアリング級駆逐艦(FRAM I・FRAM II改修艦)でした。外観がギリシャ海軍の同型艦と瓜二つだったため、パイロットたちはこれをギリシャ艦と断定し、攻撃を仕掛けたのです。
攻撃を受けたトルコ艦のほうも、相手がトルコ機であることに気づき、無線で警告を試みました。しかしトルコのパイロットたちは、無線で交わされるトルコ語のやり取りも、艦にはっきりと掲げられたトルコ国旗も、すべてギリシャ側による欺瞞工作だと考えてしまったのです。
こうして攻撃は続けられました。ようやく誤認に気づいたときには、すでに手遅れでした。「コジャテペ」は炎に包まれた残骸となり、ほどなく沈没。残る2隻も甚大な損傷を負い、人員の損失も決して小さいものではありませんでした。
一方、攻撃を受けて反撃した艦艇の対空砲火により、トルコ戦闘機5機が被弾し、うち1機は撃墜されています。それでも今日に至るまで、トルコ側は「ギリシャ船団は確かに実在し、トルコ海軍の犠牲によってこれを迎撃した」と主張し続けているといいます。
英雄ハンドリノス提督の不遇な晩年
英雄ハンドリノス提督の功績が公式に顕彰されることはありませんでした。ギリシャはごく最近まで、1974年に自国がトルコと実際に戦闘を行っていた事実を認めようとしなかったからです。
後に中将に昇進したハンドリノスは、その後トルコ駐在の武官として赴任しました。1986年、コモティニ近郊で交通事故に遭遇し、懸命の努力によって回復を果たしたものの、1994年にこの世を去りました。