ヨーロッパの歴史

ビザンツ帝国はドイツ人を屈辱に陥れた――西暦1147年、コンスタンティノープル城下の戦い

ビザンツ帝国はドイツ人を屈辱に陥れた――西暦1147年、コンスタンティノープル城下の戦い

西暦1145年、メソポタミアの要衝エデッサがムスリム勢力の手に落ちたことを受けて第2回十字軍が興った。遠征の総指揮を執ったのはフランス王ルイ7世とドイツ王コンラート3世であり、両王の軍隊はそれぞれ別個のルートで東方へ進んだ。

ドイツ軍の通過と、露呈していく略奪行為

ドイツ軍はまずビザンツ帝国(東ローマ帝国)領内へ入った。コンラート3世は皇帝マヌエル1世コムネノスを「ギリシア人の王」と呼び、皇帝としては遇しなかったが、それでもマヌエルは、ドイツ側が帝国に危害を加えないことを誓うなら通行と物資の購入を許可した。そして、アジア系の出自を持つ経験豊富なビザンツ将軍プロスークが、少数の部隊を率いてドイツ軍の監視に当たった。

しかし間もなくドイツ軍は略奪へと転じた。エディルネ(ハドリアノポリス)に達した頃、コンラートの甥フリードリヒ(後の皇帝フリードリヒ・バルバロッサ)がプロスークの部隊を攻撃したが、撃退されている。ドイツ軍は一帯に野営したものの、突然の豪雨によって多くの兵を失った。

コンスタンティノープル城下での蛮行

皇帝マヌエルは、ドイツ軍の振る舞いに警戒を強める一方、まもなく到着するフランス十字軍との両軍合流を恐れて、コンラート軍に一刻も早く小アジアへ渡ってもらおうとした。しかしドイツ王は傲慢にも、ビザンツ皇帝の要請を一蹴した。

これを受けてマヌエルは武力衝突に備え、兵力の整備を開始した。一方のコンラートは首都へ向かい、1147年9月10日、ついにコンスタンティノープルの城壁外へ到達した。ドイツ王はフィロパティオン宮殿の外壁付近に野営したが、その部下たちは宮殿を丸ごと略奪した。まるでイナゴの大群のようにありとあらゆるものを破壊し尽くすと、ドイツ軍はさらに同じく城壁外にあったピクリディオン宮殿周辺へ移動し、そこを拠点として地域一帯の略奪を開始。ビザンツの農民を殺害し、手に届くものは何でも奪っていったのである。

あえて「弱く見せる」奇抜な布陣

事態を重く見たマヌエルは、行動に移ることを決意した。将軍プロスークとバシレイオス・ツィカンディレスに対し、城壁を出てドイツ軍の前で軍事示威を行い、敵を挑発せよと命じたのである。両将軍の兵力は約2万人を数えるドイツ軍より少なかったが、歴史家ヨハネス・キンナモスの記述によれば、経験と戦術の面では明らかに上回っていた。

両将軍はともに以前からドイツ軍の監視任務に就いており、その実態を熟知していた。彼らが皇帝へ報告したところによれば、ドイツ軍は外見こそ壮麗で武装・防具も充実しているものの、機動力と規律を欠いていたという。そこで両将軍は、第一梯子に4個旅団の歩兵、第二梯子に精鋭の重装騎兵と精鋭の散兵(軽騎兵)、第三梯子に軽装の騎馬弓兵を配する布陣を敷いた。

この陣形はかなり異例だった。通常、騎馬弓兵からなる軽騎兵は前衛に置かれ、矢による射撃で敵を消耗させる役割を担う。精鋭の散兵もふつうは側面警戒を担当し、歩兵は予備として温存されるのが定石だった。それが今回は、歩兵が真っ先にドイツ軍の猛攻を受ける最前線に配されたのである。

戦闘――挑発に乗って敗走したドイツ軍

ビザンツの将軍たちが読んだ通り、自軍より少ないビザンツ軍を目にしたドイツ軍は即座に攻撃準備に入った。ほどなくして彼らは雄叫びを上げて突撃したが、連携は乏しく、冷静に待ち構えるビザンツ軍へ殺到した。史料から推察するに、ドイツ軍がビザンツ歩兵へ切り込んだ瞬間、ビザンツ軍の騎馬弓兵が背後から回り込み、側面と背面を容赦なく射ちまくった。

こうしてドイツ軍は完膚なきまでに打ち破られ、逃げられた者だけが逃げ惑った。コンラート自身は戦闘に参加しておらず、さらに後方にいたため、逃げ延びた兵たちは彼のもとへ向かった。ビザンツ軍はそれ以上追撃を加えず、ドイツ軍を完全に壊滅させないまま戦闘を終えた。十分にあり得た全滅を避けたのは、マヌエルの狙いがコンラートを滅ぼすことではなく、圧力をかけて従わせることにあったからである。

屈辱の果てに――小アジアでの再敗北

屈辱を味わったドイツ軍は、戦軍は、戦闘直後、マヌエルの勧告に従って小アジアへ渡った。しかし、ここでも傲慢さを捨てられなかったコンラートは、トルコから征服した全領土を帝国へ返還せよというマヌエルの条件を拒否した。そこでマヌエルはいかなる支援も与えず、結果としてドイツ軍はトルコ軍に壊滅的な敗北を喫することになった。ようやくこの時になってコンラートはマヌエルの条件と援助を受け入れ、ドイツ軍の残存部隊はビザンツ船によってパレスチナへ輸送されたのである。