
ロシアが後押しした革命(オルロフ反乱)がギリシャ人にとって悲惨な結末に終わると、ギリシャ全土に死と恐怖の波が押し寄せた。モレア(ペロポネソス半島)で数千人のギリシャ人を虐殺したオスマン帝国軍は、次に「いまだ服従していない」マニ半島の制圧を目指した。
1万6000のオスマン軍、マニへ進軍
モレアの新司令官オスマン・パシャ(ハッジ・オスマン)は、主にアルバニア系兵士(トゥルク・アルヴァニテス)からなる1万6000人の軍勢を編成し、マニ半島へ進軍した。これに対し、エクサルコスとヤネトス・グリゴラキス率いるマニ人は、あらゆる手段を使って戦力をかき集めた。約3000人のマニ人戦士に加え、なんと約2000人の女性たちまでが戦列に加わったのである。
カスタニツァの塔――12日間の籠城戦
オスマン軍はラコニアへ進み、まずカスタニツァの塔を攻撃した。ここにはコンスタンティス・コロコトロニスとパナギオタロス・ヴェネツィアナキスの指揮のもと、男女合わせて400人が立てこもっていた。ギリシャ人は12日間にわたり勇猛に戦い、敵の攻撃を撃退し続けたが、最終的には撤退を余儀なくされた。400人のうち300人がこの戦闘で命を落としている。
スクータリの15人の英雄たち
「勝利」を収めたオスマン軍は、村スクータリへと進み、わずか15人のギリシャ人が籠るグリゴラキス家の塔を攻撃した。この15人の英雄たちは3日間にわたり大軍を食い止め続けた。彼らをどうしても降伏させられなかったハッジ・オスマンは、ついに塔を爆破するよう命じた。勇敢な守備隊は瓦礫の下に葬られた。その後、オスマン軍は進撃を続け、パラシロスとスクータリの間にある小さな平野に野営した。
マニ流の復讐(ヴェンデッタ)
その間、マニ人たちはパラシロスを見下ろす「三頭山」と呼ばれる丘に集結していた。要塞のように固められたマニ人たちを見たパシャは、伝令を送って降伏を求めた。マニ人は3人(一説には6人)の志願の代表者をパシャのもとへ遣わし、要求内容を確かめようとした。
代表として選ばれたのは、非常に高齢の男3人で、うち2人は司祭、しかも兄弟だったという。彼らは頭を下げることなくパシャの天幕に入り、「我らの岩場に何を望むのか」と問うた。パシャは傲然と答えた。「10人の隊長の子どもたちを人質として差し出せ。武器を差し出せ。ロシア人に加担した罪の身代金を払え」。
「武器と自由をお前に渡して生き延びるくらいなら、死を選ぶほうがましだ。我々はお前に税など払わない。我々の土地は貧しいのだ」――3人はこう答え、自らの運命を決した。激怒したオスマンは彼らの処刑を命じ、首を切り落として串刺しにし、見せしめとした。しかしトルコ人が知らなかったのは、マニ人が恐れおののくどころか、流された血への復讐を誓っていたということである。彼らは圧倒的な兵力差をものともせず攻撃を決意した。ただし、敵の優位を覆すため、ある戦略を実行することにしたのである。
3000人が1万6000人を包囲した夜
マニ人は兵力を二手に分けた。夜が訪れると、1500人の部隊が密かに動き、地形を熟知していたおかげでオスマン軍の背後へ回り込んだ。もう一方の部隊は、気づかれないよう慎重に正面から接近した。第一部隊がトルコ軍の背後を突いて大混乱を引き起こすと、第二部隊も前線から一斉に突撃した。
信じがたいことだが、3000人のマニ人は1万6000人のトルコ軍を包囲することに成功した。凄惨な殺戮が始まった。混乱のさなか、トルコ人やアルバニア系兵士同士が互いに斬り合うことさえあったという。最終的に1万のトルコ兵の死体が大地を覆い、逃げ延びた者たちはミストラスへ無秩序に敗走していった。マニ人側の損害は定かではない。
悪臭の井戸(ブロモペガダ)とさらなる復讐
マニ人にはトルコ兵の死体を処理する他の手段がなく、彼らを周辺の井戸へ投げ込んだ。この場所は後に「ブロモペガダ(悪臭の井戸)」と呼ばれるようになった。しかし、オスマンは後に裏切りによってエクサルコス・グリゴラキスを討ち取ることに成功する。その報復として、マニ人はパサヴァス城を攻略し、守備隊のトルコ人全員を容赦なく殺害したのである。