ヨーロッパの歴史

「テルモピュライを忘れるな」――1919年、ヘルソンでボリシェヴィキ軍と戦い抜いたギリシャ兵たちの壮絶な記録

「テルモピュライを忘れるな」――1919年、ヘルソンでボリシェヴィキ軍と戦い抜いたギリシャ兵たちの壮絶な記録

ウクライナ介入とギリシャ軍の派遣

ボリシェヴィキに対するウクライナ介入が決定されると、フランスは同地域へわずかな兵力を送り込み、ギリシャにも支援を要請した。エレフテリオス・ヴェニゼロスはこれに応じ、第1軍団の派遣を命じた。ウクライナに到着した最初のギリシャ部隊は、ピレウス出身者で構成された勇名高い第34歩兵連隊であった。1919年1月11日、フランス軍はヘルソン市への兵力派遣を決定。この任務のため編成された支隊は、第34歩兵連隊第1大隊(I/34)、フランス第176歩兵連隊の減員中隊、その他の小規模なフランス部隊からなり、ランション少佐の指揮下に入った。

ヘルソンの防衛態勢

ギリシャ部隊の到着は市内の秩序維持に大きく寄与した。2月17日、ボリシェヴィキ軍は初めて市への攻撃を仕掛けたが、これは撃退された。そこで敵はより本格的な準備を進め、その間にヘルソンの連合軍も増強された。2月22日にボリシェヴィキ軍が再攻撃を開始したとき、防衛側の手には次の戦力があった。ヴラホス(プラッソス)少佐指揮下のI/34大隊、ギリシャI/7大隊の第1・第2中隊、フランス歩兵2個減員中隊、機関銃小隊、そして65mm砲4門を擁するフランス砲兵2個隊である。

兵力配置

各部隊は次のように配置された。マティオス中尉率いるI/34大隊第1中隊(1/34)は市の鉄道駅に展開。ボイエナ郊外には1/7中隊とフランス軍1個中隊が、ザンポルカ郊外には2/7中隊ともう1個のフランス中隊が配備された。港湾地区には2/34中隊の1個小隊が置かれ、I/34大隊の残り兵力は市内の要塞に展開した。1/34中隊には、ギリシャ製機関銃2丁とフランス製機関銃4丁が増強されていた。

圧倒的な敵との対峙――「テルモピュライを忘れるな」

2月22日午前9時ごろ、アタマン・グリゴーリエフ麾下のソビエト第17師団の大部隊が、砲兵と装甲列車の砲火に支援されて攻勢を開始した。注目すべきは、グリゴーリエフ自身が2月16日、鉄道駅を守る1/34中隊長イリアス・マティオス中尉と電話で会話し、自軍の圧倒的な数的優位を強調しながら武装解除を求めていたことである。これに対し勇敢な中尉はこう答えたという。「しかし、テルモピュライのことを忘れないでください。そして確信してください。ギリシャ人が戦わねばならぬとき、彼らはギリシャ人らしく戦うことを」

攻撃側はボイエナ郊外と鉄道駅の守備隊を特に激しく攻めた。ボイエナではボリシェヴィキ軍が1/7中隊を退却に追い込んだものの、着剣突撃による反撃で撃退された。しかし次第に、敵は圧倒的な数的優勢をもって押し返してきた。攻撃側は市の電信電話局を占領し、鉄道駅の守備隊を包囲寸前まで追い詰めた。フランス軍指揮官ランション少佐は状況を見て増援を要請した。しかし利用可能なのはわずか130名で、しかも翌日の正午より早くオデッサから汽船で到着することはできなかった。

激化する戦闘

ヘルソンでの戦闘は激烈を極め、ギリシャ兵たちは英雄的に戦い、夜が訪れるまで敵を撃退し、持ち場を守り抜いた。その後、失陥した一部の陣地の奪回にも成功した。夕方には、鉄道駅の1/34中隊が3/34中隊と交代した。翌2月23日、ボリシェヴィキ軍は攻撃を再開した。1/7中隊はボイエナから要塞方面へ圧迫されて退却を余儀なくされ、1/34中隊がその救援に向かった。2個のギリシャ中隊は奇跡的な活躍を見せ、敵を3度にわたり撃退した。しかし敵の数的優位は圧倒的であった。

そんな中、勇敢なマティオス中尉はある女性の裏切りによる銃撃で倒れ、カペト中尉が指揮を引き継いだ。その間も、鉄道駅でもザンポルカでもボリシェヴィキ軍の圧力は耐え難いものとなっていった。それでも守備隊は闇が訪れ、攻撃が緩むまで持ちこたえた。ランションは市からの撤退を決意したが、18時15分にオデッサから130名が到着すると、さらなる増援が送られるものと判断し、考えを変えた。

崩壊の始まり

翌2月24日、ボリシェヴィキ軍は朝6時に攻撃を開始し、鉄道駅の占領に成功した。3/34中隊は負中隊は負傷者も収容しながら、整然と退却した。一方、フランス軍1個中隊は包囲されたが、なんとか港まで退却することに成功した。しかしその時点から混乱が広がった。ヴラホス少佐はランションとの連絡を失ってしまったのである。13時30分ごろ、ボリシェヴィキ軍が要塞へ攻撃を仕掛けた。ヴラホス少佐は書記や料理人まで戦列に加えてこれを撃退した。だが状況はすでに悲惨を極めていた。機関銃は過熱で使い物にならなくなり、弾薬も尽きかけていたのである。

増援到着と撤退劇

幸い、増援は間に合った。ニコラオス・ロカス中佐率いるギリシャ第1歩兵連隊とそのI/1大隊である。さらに第II軍団歩兵監のガルガリディス大佐と、フランスのドゥ・クラヴィエ中佐も同行していたが、ドゥ・クラヴィエは、上位であるガルガリディスを差し置いて誤って指揮権を握ろうとした。ガルガリディスはフランス側と協議のうえ、I/1大隊に上陸を命じ、要塞に閉じ込められたギリシャ部隊との接触を図った。

要塞内の状況は悲惨だった。弾薬が尽きたヴラホス少佐は、部下の同意のもと、銃剣突撃を敢行して栄光ある名誉の死を遂げることを決意していた。しかし彼らの犠牲は最終的に不要となった。17時15分、I/1大隊の偵察班が彼らと接触したのだ。その間に、ガルガリディスが待機させておいたII/1大隊を乗せた船も港に到着した。一方のドゥ・クラヴィエは為す術を知らず、ガルガリディスが作戦について相談しないことに腹を立てたという!

傲慢なフランス将校を前にしても冷静さを保ったギリシャ人の大佐は、撤退するのか、それとも戦いを続けるのか、繰り返し問いただした。最終的に撤退が決定された。その間、ガルガリディスは要塞に閉ざされたギリシャ部隊の退却支援のため、II/1大隊から1個小隊の上陸を命じた。撤退は2月25日未明に始まり、概ね成功裏に完了した。しかし、すべての火砲と7丁のギリシャ軍機関銃、そしてI/34大隊の輸送手段の一切が放棄され、船に乗り遅れた少数のギリシャ兵も出た。

戦闘の代償

連合軍の撤退直後、ソビエト第17師団が市に入城し、5個のギリシャ狙撃中隊と1個機関銃中隊、約200~250名のフランス兵と3日間にわたり交戦することになった。連合軍の保護を求めていた市内のギリシャ系・ユダヤ系住民は、夜間に方向感覚を失い乗船できなかった少数のギリシャ兵とともに、ボリシェヴィキ軍によって容赦なく虐殺された。ヘルソンの戦いは、ギリシャ軍にとって特に血なまぐさいものとなった。ギリシャ軍の損害は死者117名、負傷者140名。フランス軍は死者11名、負傷者21名であった。

「テルモピュライを忘れるな」――1919年、ヘルソンでボリシェヴィキ軍と戦い抜いたギリシャ兵たちの壮絶な記録

アタマン・グリゴーリエフ軍の兵士たち。