ヨーロッパの歴史

ペルシア王ダレイオスがギリシャ侵攻を決意した理由とは?イオニア反乱への対処が鍵

ペルシア王ダレイオスがギリシャ侵攻を決意した理由

ペルシア王ダレイオス1世がギリシャ侵攻を決意した最大の要因は、イオニア反乱(紀元前499年〜前493年)に対するアテナイの介入でした。ペルシア帝国の支配下にあったギリシャ系都市の反乱を、本土ギリシャ側が支援したことが、両者の対立の直接の引き金となったのです。

イオニア反乱の勃発

当時、小アジア(現在のトルコ西岸)沿岸に暮らすイオニア系ギリシャ人たちは、ペルシア帝国の統治下に置かれていました。紀元前499年、ミレトスの僭主アリスタゴラスを中心として、ペルシアの支配に反旗を翻す大規模な反乱が起こります。

アテナイとエレトリアの支援

反乱軍は本土ギリシャからの支援を求め、その呼びかけに応えたのがアテナイとエレトリアでした。アテナイは20隻、エレトリアは5隻の艦船を派遣して反乱軍に加乱軍に加勢します。紀元前498年、連合軍はペルシア帝国西部の重要拠点であったサルディス市へ進攻し、市街の一部を焼き払うことに成功しました。

ダレイオスの怒り──「アテナイ人を忘れたもうな」

サルディス焼き討ちの報告を受けたダレイオスは、「アテナイ人とは何者か」と問うたと伝えられています。古代の歴史家ヘロドトスの記録によれば、彼は毎晩の食事の際に従者に対し、
「主よ、アテナイ人を忘れたもうな」
と三度唱えさせたという有名な逸話も残されており、この事件がどれほど深く王の心に刻まれたかを物語っています。

反乱鎮圧から懲罰遠征へ

紀元前493年、イオニア反乱は徹底的に鎮圧されました。しかしダレイオスの怒りは収まらず、アテナイとエレトリアへの懲罰、そしてエーゲ海対岸への勢力拡大を目指し、本格的なギリシャ遠征を決断します。

こうして紀元前490年、第一次ペルシア戦争と呼ばれる遠征が開始されました。ペルシア軍はまずエレトリアを破壊しますが、続くマラトンの戦いではアテナイ軍に敗北します。この対立はその後も燻り続け、次代の王クセルクセス1世による大規模な第二次ペルシア戦争(紀元前480年)へと発展していったのです。